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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# プライドランドはどこにある(拍手メッセージ返信を追記)
このブログではよく「言葉」と「偏見」について語っている気がします。
(わたしが「偏見」という時は、「悪意の有無とは関係ない先入観」
といった意味で使うことが多いです。こちらの記事が詳しいです

言葉というのは文化だとわたしは固く信じているのですが、言葉とは
偏りもまた生むものだとも思います。つまり文化には、偏りは付き物。
「分け隔てない」には程遠いのが現実ではないでしょうか。
実に難しい問題です。

学術的な調査ではないかも知れませんが、以前にテレビで
「日本中どの地方でも、多くの子供がままごと遊びをする時には
標準語を使う」
という説を唱えているのを見たことがあります。
実際に色々な地方で調査をしたところ、本当に多くの子供たちが、普段は
方言を使っているのに、いざおままごとをして遊ぶ段になると、標準語を
当たり前に使っているようでした。
絵本やアニメなど、子供たちが触れるフィクションの世界が標準語を
使うから、という理由付けをその番組ではしており、非常に興味深く見たのを
覚えています。なるほどな、と。

わたしが身を置いている演劇の世界では、基本的に標準語は鉄則です。
もちろん日本の戯曲で、しかも地域性やそれに付随したキャラクターが
描かれている場合をは別ですが、そうでもない限り訛りはご法度。
特にわたしは翻訳された作品に携わることが多いので、日本のどこか特定の
地域のイメージや、日本のイマドキの若者の気配を伝えてしまうことは
望ましくありません。稽古の期間中に出演者が訛ったら、それはきっぱり
「間違い」と見なし、徹底的に訛りを駆逐します。

それもこれも、そもそも日本では(それが善いことか悪いことかは別にして)
厳然と「標準語」があり、それ以外の方言や訛りは「地域性」と直結して
いる、という背景があるからです。(その上で、どんどん「若者言葉」という
ヤツも幅を利かせつつありますが。「◯◯くなる」の「◯◯」の部分を平板に
発音するのっていつから始まったんだろう)

その点、英語は全く事情が違います。

世界中の色々な地域で独自の言語文化を築かれたので、日本語においての
ような意味合いの「標準語」は存在しません。

「世界標準」の英語なんて存在しないのです。
世界中に、数えきれない細かいグラデーションでアクセントが存在します。

この「アクセント」という言葉が何よりの証拠です。
辞書で引けば「アクセント」は「訛り」という意味なのですが、
日本語の「訛り」が基本的に「標準語と違う」時にしか使われないのに対し
「アクセント」は「どの言葉か」という意味であって、そこに基準などは
存在しないのです。

唯一、イギリスではアクセントにヒエラルキーが存在します。地域性だけで
なく「階級」「教育レベル」が関わってくるのです。しかし、だからといって
日本のように演劇で基本的に使うべき基準としてのアクセントが存在する、
というわけではなく、物語と人物によってアクセントの使い分けがされます。

アメリカは本当に地域性と言葉が直結しているのですが、そこに人種も絡んで
くるので、やはり物語と人物次第でアクセントの使い分けがされる‥‥

‥‥と、最近までそう思っていました。

しかし、問題はもっと複雑化していた!

きっかけは、久しぶりに引っ張り出して聴いた『ライオンキング』のCD
でした。

ディズニーが「偶然似てしまった」と仰る『ジャングル大帝』への操と
エルトン・ジョンのミュージカル度の低さがわたし的にはつまらないのと
ジュリー・テイモアの嗜好の演劇性の低さもわたし的にはつまらないので
一応、映画の方はレンタル開始した時に押さえてはいつつも、舞台版には
長い間全く縁のなかった作品。
ひょんなことから昨年末に観る機会があり、日本初演から11年にして
初めて舞台版を観劇しました。
ジュリー・テイモアの演出はやっぱり納得いかんしエルトン・ジョンは
やっぱりミュージカル的センスを追求していないなぁ、とも思いましたが、
テーマと脚本は想像よりもずっとしっかりした戯曲で感動したし、音楽も
大好きな曲があった(エルトン・ジョンが作曲していない曲でした!)ので、
仕事の資料として入手して以来10年ほど聴いていなかったブロードウェイ
オリジナルキャスト盤CDを引っ張り出して聴いてみたのでした。

すると。



‥‥何じゃこりゃーっ!!!




‥‥ってゆーか、どこなの?これ。




声質も発音も明らかにアフリカ系アメリカ人の王様ムファサに仕える、
バリバリのイギリス人丸出しの執事ザズー。。

(四季では「ザズ」と表記されていますが、わたしのバイリンガル人生
全てを賭けて言います、それはおかしい!!!「Zazu」という名前は
「ザズー」と表記すべきだとわたしは主張したいです。異論ある方、
どうぞコメントをお残しください)


ムファサは、発音は明らかにアフリカ系ですが、アクセントはほんのり
イギリス寄り。息子シンバもアクセントをあまり感じないけど『早く王様に
なりたい』だけはバリバリのアフリカ系、しかもハーレムのアクセントが
くっきり。
‥‥じゃあムファサの弟スカーはというと、これが見事なエセ英国アクセント!

ザズー、イギリス王室にお使えしているってな雰囲気をぷんぷんさせながら
「ここアフリカ」って歌ったりしてます。そして主君は黒人。
そして、「早く王様になりたい」とハーレムのニュアンスたっぷりで歌う
幼い黒人の王子に「器じゃない」とぶつぶつ文句を言う、コッテコテに
ブリティッシュなザズー。。

そして寄る辺なくなったシンバを助けるアウトサイダー=ティモンとプンバァは。
‥‥これ、ブルックリン訛りじゃない???

シュ、シュールすぎる‥‥!

四季の舞台を観た時も、むかし映画を見た時も、それぞれのキャラが
すんなり入ってきたのに。。ブロードウェイオリジナルキャスト盤は設定と
アクセントがケンカしてて、ものすごーく不自然!違和感!気持ち悪い!

「黒人が王さまじゃあいけないの?」
「イギリス人が黒人の王さまに仕えてたらおかしいの?」
‥‥ううう。自分の中の人種的偏見と戦いながら聴くミュージカルなんておかしい!

‥‥早速、映画のキャストを改めて調べてみたら。

ムファサ‥‥ダース・ヴェイダー。
シンバ‥‥子役も成長後もさわやか王子さま系スター(当然白人そしてアメリカ人)
スカー‥‥ジェレミー・アイアンズ!(バリバリのイギリス人)
ザズー‥‥ローワン・アトキンソン!(バリバリのイギリス人)
ティモンとプンバァはエンターテイナーで知られる人を起用してキャラ重視、
逆にハイエナたちはコッテコテに黒人アクセントなウーピー・ゴールドバーグを
はじめ、やはりコッテコテにラテン訛りの俳優がキャスティングされています。


‥‥なるほど。

ムファサは、息子に運命の十字架を架ける存在として、ダース・ヴェイダーな
わけです。彼は黒人です。でも黒人である以上に、ダース・ヴェイダーですよ
何といっても!!!「You are my son!」ですよ(共通の名台詞 笑)

困難を乗り越えて成長していくヒーローで王子さまは、ティーンアイドル系の
(そして白人の)さわやか君なわけです。

映画のスカーは少々間抜けな舞台版と違って、シェイクスピア的悪役の重厚感と
墜ちた高貴さを感じるキャラということで、イギリスの正当派俳優。

ザズーは過度に几帳面な「小物」感がコメディタッチなイギリス人喜劇俳優。

そして脇役たちに関してはキャラ重視、印象として人種よりもキャラが立つ人か
逆に人種的ステレオタイプをもってくる。。

キャラクターと、そこに要求された要素に、まるでオーダーメイドした
かのように合致したキャスティングです。
キャスティングが決まった時に、その人物のキャラに必要なアクセントも
決まっていった、という感じでしょうか。

しかし、百獣の王ダース・ヴェイダーに小役人ミスター・ビーンが仕え
アイドル系で現代っ子の息子がいて、重厚な恨み節を響かせるシェイクスピア
悲劇な弟がいる。。という図式は、人を変えてしまったら残るのは違和感
だけだった。。というのがわたしの印象です。

アニメならともかく、人間が演じるとなるとどうしたってムファサとシンバは
黒人にしなくてはならない、というアメリカならではの社会からの圧力も
存在していると察します。

ハイエナたちの配役にも同じ圧力がかかったらしく、映画版では
いわば「汚れ役」であるハイエナたちに黒人アクセントやラテンアクセントを
配役したことで批判が多かったのか、ブロードウェイ版のハイエナたちには
地域性や人種をあまり感じません。その代わり、ティモンとプンバァが
コッテコテのブルックリンアクセント。ブルックリン、つまりニューヨーク市内の
アクセントなのでいわば当たり障りがないアクセント、というのでしょうか。

‥‥と、そうやって帳尻を合わせていくうちに、あのやたらとコスモポリタンと
いうか無国籍というか無秩序というか、実に不思議なプライドランドが
ブロードウェイ版『ライオンキング』では出来上がってしまったのだと
思われます。

でも考えてみれば、ディズニーはアクセントによるキャラ付けを頻繁に
しているのです。

A)重厚な悪役
あるいは逆に
B)せかせかと過度に几帳面で気が小さい小物キャラ
に、イギリス英語を割り振ることがどうも多いのです。

わたしが覚えてる範囲では:

『アラジン』
A)ジャファー
B)ジャスミンの父親(王さま)

『ノートルダムの鐘』
A)フロロー判事
B)ガーゴイルも

以上がその図式に当てはまります。

『美女と野獣』に至っては、几帳面な執事で時計のコグスワースがイギリス、
色男で燭台(欧米では「ろうそく」は「ロマンティック」の象徴です)の
ルミエールがフランス訛りの英語、という洒落たことまでしています。
(名前にまでその国らしさがぷんぷん匂います)

どの映画も、主役級の声は軒並みハリウッド映画で主役をやるタイプの
白人がとても現代的な、多くはハリウッド的なアクセントで演じていた、と
いうことも書き添えておきましょう。

こういった傾向が批判を呼んだのか、ディズニーはこの後
『ムーラン』『ポカホンタス」と明らかにエスニック色の強い主題を
手掛けています。何だか言い訳じみている気がして‥‥確かわたしこの2本を
見ていないような記憶が。

こうして見るとディズニー映画はいかにも極端ですが、ヨーロッパの
時代物などの映画を英語圏でつくると、似たようなことはたくさんあるような
気がしてきました。

例えば『アマデウス』。

物語の舞台はオーストリア宮廷ですが、奔放なモーツァルトはもちろん
アメリカ英語だし、イタリア人という設定のサリエリはイタリア訛り、
他の宮廷の人物たちは、エセ英国アクセントの皇帝役の俳優を除けば
イギリス人俳優がズラリと並んでいます。

本来はオーストリアなのだから英語を話すこと自体がおかしいといえば
おかしいし、でもドイツ語をそのまま英語に置き換えている、という設定に
すればいいかといえばそうとも言い切れず、様々な種類の英語を配して
色づけをすることで雰囲気を出している、というこの状況。

ヨーロッパの様々な国で、真っ白いかつらやつけぼくろ、リンネルや
レースで着飾った人々が宮廷生活を繰り広げていた頃に、新大陸アメリカ
では「インディアン」たちと土地を巡って戦いを繰り広げていたわけで、
「高貴さ」を醸し出そうとする時にヨーロッパの香りを散りばめるのは
歴史的、文化的必然かも知れません。

つまりアクセントや方言の問題は人種と直結しているわけです。
それはつまり「歴史」であり「文化」であり、つまりは「偏見」ひいては
「差別」と隣り合わせ。

線引きをすることが非常に難しい問題です。

その点、「地域差」しか存在しない日本語の『ライオンキング』は
実にのどかですねぇ。

「アクセント=人種」の問題がこれだけ存在する作品で、世界各地で
上演する際にティモンとプンバァの2人物に関して、その地方に
関連したアクセントまたは方言を使うことを要求するジュリー・テイモア
という演出家は何ていい度胸してるんだろうと思うのですが、日本でそれを
やると「ご当地キティ」とか「ご当地ポッキー」並みの気軽さ!
日本の大都市で順繰りにロングランをして回る、という劇団四季のスタイルと
図らずもがっちりはまった、というわけです。

個人的に、東京公演で使われている江戸弁はピンときません。常日頃から
日本の方言で一番難しいのは江戸弁だと思うのです。ただ単に乱暴な
喋り方に聞こえることが本当に多くて。。

どこか、地方のご当地『ライオンキング』、一度観てみたいです。




薛 珠麗(せつ しゅれい)


追伸:以下に、拍手の方にいただきましたメッセージへの返信を。
   拍手のみ下さる皆さま、ありがとうございます。嬉しいです!
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web拍手
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# 「偏見」考 その2(拍手コメントお返事追記)
20歳ちょい過ぎの知り合いのブログで、
「偏見がこの世界からなくなればいいのに」という意味の一文を発見。
他でも目にしたことのある考えです。

実はわたし、今まで一度もその意見を持ったことがありません。

大辞林の定義によれば:

へんけん 【偏見】

かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠が
ないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、
またそれにともなう感情。
「―をいだく」「人種的―」


つまり「偏見」とは、正しい認識を持つことによって改められること。

基本的には、アイデンティティという枠を持つ者がそこに属さないもの、
その枠の外にあるものに対して抱くもの。

人間に居場所がありアイデンティティがある以上、その外にあるものを
少なくとも最初は「得体が知れなくて怖いもの」だったり「不審なもの」と
捉えて警戒する、というのは間違っていないとわたしは思います。

肌や目や髪の毛の色が基本的にみんな一緒なのが当たり前な世界の人が
肌の色が真っ白だったり焦げ茶だったり、目の色が真っ青だったり
髪の毛が真っ赤だったりする人々を、とっさに奇異に思わない方がおかしい。

初めて聞く言語を「変な言葉」と笑うのも当然です。

自分にとっての礼儀や常識の通じない相手を「怖い」と思うのも当然です。

じゃあ、異なものに触れる機会が多ければ偏見がなくなるかと言ったら
そんなに単純なことでもなく。

わたしは生まれも育ちも日本で海外に暮らした経験は皆無ですが、
異常なまでに国際的な環境でした。

父親は中国本土生まれの香港育ち、母親は日本人。
父親は6人兄弟ですが、香港の本土返還の混乱にばっちり巻き込まれ
香港に残ったのはわずか2人。後は日本、シンガポール、アメリカ合衆国、
ニュージーランドに散り散りです。
しかし、6人兄弟の中で中国人以外と結婚したのがわたしの父だけなので
わたしと母だけ言葉が通じません。
親族の寄り合いが祖母が今も住む香港で開催されると、世界中に散り散りに
なった60人以上の親族が集まったりします。ホテルの宴会場に溢れるほど
賑やかな彼らを見回していると「チャイニーズはどこの国に行っても
皆さん見事に服装や気質がチャイニーズだなぁ」と感心します。数十人の
女性たちが皆さんノーメイク、真っ黒なストレートヘア、マニキュアさえ
もってのほか、服装だって地味な普段着__という中でメイクはもちろん、
金ラメやラインストーンで飾ったジェルネイルを施し、チュニックワンピを
着たわたしは、どれだけ浮いていたか(笑)

そんな香港チャイニーズな父が日本で暮らすことを選んだのは横濱の中華街。
今では大きな日本の資本が入ったり世代交替が進んだりしていますが
わたしが幼い頃は中華街以外の日本を「日本町(にほんまち)」と呼ぶほど
閉鎖的な土地柄でした。
そんな中にも日本人は住んでいて、頑に周囲の中国人を見下す人も
いたし、かと思えば同じ中国人でも出身が本土か香港か台湾かで明らかに
派閥があったり、かと思えば日本人と中国人が束になって韓国/朝鮮の
人を見下したりしていました。

学校はたくさんの国籍/人種の子供たちが共に英語で学ぶ(「英語を」では
ないです)インターナショナル・スクールに通いましたが、ここにも
派閥がありました。まず教師陣が、イギリス閥(ウェールズとスコットランド、
アイルランドを含みます)とアメリカ閥(カナダを含みます)に分かれて
いました。たまにいたオーストラリア出身の教師陣はいずれも強烈な
個性の持ち主で、校長&教頭の座を固めたイギリス閥と衝突を繰り返す
ファイターばかりだった記憶があります。

生徒は、アメリカ人が一番多くて次にイギリス、その次が日本人という
学校で、日本以外のアジア人と黒人が極端に少ない学校でした。そのため
たまにインド人が転校してくると「臭い」といじめられ、エジプト人が
何人かまとめて転校してきた時は一斉に警戒と好奇の目を向けられて
いました。教師陣よりもバックグラウンドが多岐に分かれていたために
教師陣ほどわかりやすい派閥はありませんでしたが、目に見えない分、
「いじめ」が絡んでくる分、デリケートで陰険な派閥は確かに存在しました。
中でも、アイデンティティが強い国柄も手伝ってか、ハイスクール時代は
アメリカ閥が生徒の間では幅を利かせていました。

同じ日本人でも、アメリカで暮らした経験のある日本人はアメリカ閥の
間で受け入れてもらいやすい、とか。同じ日本人でも横濱の山手にある
西洋人のコミュニティ(「社交界」と言ってもいいかも)で彼らと同等に
社交できるほどの財力があるかどうか、とか。(会員制クラブ、とか色々
あるのです)日本人の間でも、優劣がありました。

学年が低い頃はもっとシンプルでしたが、今度は幼すぎて知識がないから
謂れのないことでいじめられたりします。

わたしが小さな頃に一瞬だけいじめられた原因は、何と「のり弁」でした。

母校は100%お弁当だったので、母が日本人であるわたしはごはんと
おかずを入れたお弁当箱を持たされていたわけですが、中でも好物だった
のは母特製の「のり弁」。海苔が2段になった力作で、もちろん
その脇には色んなおかずが入っています。
しかし、西洋人の級友たちにとって、真っ黒い「海苔」というのは
非常に不気味な、食べ物とは思えないグロテスクな代物だったようです。
わたしが弁当箱を開くと、まるでヘビでも見たように不気味がります。
わたしはからかわれていると思い、そんなのには構わず大好きな
「のり弁」を食べ続けていましたが、「不気味」の絶叫は何と本気だった
らしく、わたしは「本気で嫌がっている人もいるのに、それでも
不気味なものを学校に持ってくるのをやめない性格の悪い奴」という
レッテルを貼られてしまいました。

海外で日本食が今ほど一般的でなかった時代。
みんなは日本の代表的な食品の一つである海苔を知らなかったし、
わたしも、日本の代表的な食品がまさかヘビやカエルのように本気で
おぞましがられているとは、夢にも思っていませんでした。

アイデンティティというものは、別の見方をすれば「壁」になります。
その壁の外に投げかける目線が「偏見」です。

色々と書きましたが、何が言いたいかと言うと。。

上記のような環境の中でずっと生きてきたわたしの結論は、
「偏見はなくせない」ということです。

なぜならば、それはアイデンティティと紙一重だからです。
自分の属性のアイデンティティがクリアになればなるほど、その外に
あるものとの違いが明確になります。
しかし、たとえもれなく偏見を伴うものであっても、アイデンティティは
必要です。言語や歴史、文化、伝統などの継承は全てアイデンティティ
あってのことです。

アイデンティティをきちんと持ち、かつその外にあるものをきちんと
知っていく__偏見は永遠になくなりませんが、一人一人が「知る」
ことによって乗り越えることはできます。

では、差別はどうか。

1つ前の記事で「改められる偏見を改めないことを差別と呼ぶ」と
書きましたが。。。

生まれた時からアイデンティティが混在する環境の中にいても、
人間は壁をつくり、自分の立場を守るためにも人間に優劣をつけます。

自分が優位でいるためなら他者を見下し、また他者を見下しやすい
ように味方でない同士でも易々とタッグを組める。そういう浅ましさが、
人間には確かにあります。

だから、差別を完全になくすことは、不可能ではないかとわたしは
思っています。

しかし、自分が立っていられるために他者を見下すことを必要としない
人間というのも確かにこの世には存在しているわけで。。。

客観的に、しかし愛を持って自分を、そして出会った人一人一人を、
みつめることのできる人は、自分の下に人を置いたり、自分を人の上に
おかないと気が済まなかったりすることはないのではないかと思います。

知ることによって偏見を乗り越え、
自分を愛し育てることによって他者を差別する必要のない人間になること。

偏見や差別がなくなることはないと思いますが、一人一人がそういう
人間になることはできると信じています。



薛珠麗(せつ しゅれい)



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# 「偏見」考 その1
以前、インタヴューやニュースなどで外国人の言葉を再現する際の
「不自然な洋画吹き替え調」についての記事を書きました。

常日頃から、その辺に敏感?過敏?なワタシ。

過熱報道にも程がある「英会話講師殺人死体遺棄事件」報道を見ていて
(メディアの責任は大衆の好奇心に応えることか!「知る権利」と
「好奇心」と「伝える義務」は一体どんなバランスになっとるんだ!
この国はっ)ふと、被害者遺族のコメントの訳し方に気づくことが。

敬語になってる‥‥!

日本人であったらしたであろう口調に、ちゃんと、なってる!!

「そんなの当然でしょう」と思われたそこの貴方。

なぜですか?

そんなこと考えてみたことありませんよね、そうですよね。

「だって『リンゼイもきっと微笑んでると思うわ』なんて
言ったら、遺族なのに不謹慎じゃないか」
(↑日テレNEWS24配信にあった被害者の姉の言葉をアレンジしました)

そんな声が聞こえてきそう。そうですね、わたしもそう思います。

わたしがネットで見たニュースでは、遺族の皆さんの言葉は
きっちりとした言葉遣いで、真摯な日本語に訳されていて、わたしも
その翻訳は正解だと思うし、訳した方をリスペクトします。

が、わたしが言いたいのは。。

じゃあどうして、ハリウッドスターや洋楽アーティストの言葉は
「不謹慎」でもいいのか!「最高にいかしてたのさ」とかでも!
何億円もギャラもらってドラッグとかやってて奇行に走るような
連中の言葉なら、あのにっくき「不自然な洋画吹き替え調」でも
いいのかと!(言っておきますが、言うまでもなく世の中にはもちろん
「不自然でない洋画吹き替え」というのも存在します、一部には)

おかしいじゃないかー!偏見だー!

彼らだってアーティスト、自分の発言の一つ一つを「表現」として
こだわって選び抜いているはずなんです。

日本のメディアは外国人の「気さく」(←ああ何て実体のない言葉)を、
アメリカ人の「陽気」(←ああ何て実体のない言葉)を、
履き違えすぎてやしないだろうか!

そういうのを、わたしは「偏見」と呼びます。
しかも、1秒で改められる偏見です。
改められる偏見を改めないことを、わたしは「差別」と呼びます。
メディアの意識の向上を望みます。


薛珠麗(せつ しゅれい)
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# 気迫の衣裳。
足利事件。
無実であるにも関わらず17年もの年月を刑務所で生きた
菅家利和さんに、宇都宮地検のトップが謝罪をしました。
同時に、15本もの捜査テープもご本人に開示されたといいます。
「極めて異例」と繰り返すテレビのニュース。
(冤罪で17年も投獄される以上の「異例」があるかと問いたい!)

わたしはそんなにニュース一般をしっかり把握している方じゃないし
この措置がどれだけ誠意のあるものか計るための知識すら持っていないので
社会的観点から語ることはできませんが、とにかくわたしはひたすら
菅家さんの服装ばかりみつめていました。

まるでマッカーサーと昭和天皇だ、と言葉を失って。

地検のトップはきっちりとスーツを着込み神妙に頭を下げ、
この間まで無期懲役の刑に服していた菅家さんはシャツ姿、
釦を留めていない襟元からは白いシャツが覗き、ウェストにはポーチ。

菅家さん、背広を着なかったのは意志だったこととお察しします。
ニュースを見る限りでは、謝罪のために菅家さんはいわば
わざわざ出向かなければなかったわけで、いわば呼びつけた形になる
地検側に対して何らかの意思表明だったかも知れません。
「許すか許さないかはそちらの誠意次第、まず話だけは聞こう」
そんな意志が伝わってきました。

わたしが「マッカーサーと昭和天皇」といったのは、2人の
初の会談の際に世界に配信された写真のことです。
開襟でノージャケット、リラックスして手足を崩すマッカーサーと
モーニングで正装し起立する小柄な昭和天皇。
日本の敗戦を何より国の内外に印象付けた、エポックメイキングな1枚の写真。

衣裳からこれだけの意志が伝わるのか、と揺さぶられる報道でした。

その服装で臨んだ菅家さんが何を今、思っておられるか想像すら
できませんが、願わくは、奪われた17年のぶんも精一杯に
充実して楽しい人生を、昨日のようなリラックスした姿で
過ごしていただきたい。そう願わずにいられません。


薛 珠麗(せつ しゅれい)
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# 映画はあまり。
演劇つくってる人間としてはめずらしいと思うのですが。

映画をあまり見ません。

映画館なんか1年に数えるほどしか行かないし。
じゃあレンタルで見るかっていうと、それもほとんど。

3年前の今日クランクイン、というスケジュールで1本だけ
映画の仕事をしたこともあるのですが。。その仕事では、
映画作りの現場の全てを特等席で俯瞰することができました。
映画のことが色々とわかり、非常に面白かったです。

視覚のトリックを細かく積み重ねてつないでいって「リアル」を
つくり出すのが映画。
しかしわたしは、感動的な場面で素晴らしい演技をしている役者が
実は現場ではカメラを見ていた。。という、割かし根源的な映画の
嘘によって、どうしてもちょっと冷めてしまうんですよね。

役者のイマジネーションと観客のイマジネーションの間に分断が
あるところが映画の豊かさのひとつなのだと頭ではわかっているの
ですが、わたしはやはり、演劇の同時性が好きなのだと思います。

たとえば、登場人物が衝撃的な発言をした時。

舞台だと、発言をした人間、発言をされた人間、どちらを観る
自由もあるし。どちらを見るでもなく、その間に流れた電撃の
ような緊張をナマで感じとることもできる。

映画だと、発言の瞬間とそれを聞いた人間のリアクションが、
全く別に撮られてる時の方が多いはず。
「監督のまなざし」がそこに入るわけですが、わたしは director
(英語では映画監督も舞台の演出家も director)の存在はもっと
サブリミナルな方が好みなのかも。肉体を曝している役者が
物語を生きていることの方が、ずっとずっと興味があります。

別に映画に否定的とかキライというわけではなくて、
「芝居の方が好き」というだけのことなので悪しからず。

ただ、芝居だと伝えにくいものが映画では伝わる、ということは
本当に多いです。空気とか陰影とか色とか質感とかちょっとした
目線とか(役者のそれも、カメラのそれも、カットのそれも)
主にそういうニュアンス的なものなどは特に。映画を見ると、
そういうことの方に引きつけられて劇場を後にすることが多い
ように思います。

それと、もうひとつ映画に今ひとつ苦手感があるのはナゼかと
いうと。。

外国映画が苦手なんです。

英語の映画はずーーーーっとエンドレスに字幕チェックしちゃうし
(これは子供の頃からのクセです)チェックするのみならず
「訳が違う!」とハラが立ってきたりしますからね〜。何だか
疲れちゃうんです。

それ以外の言語の映画は、苦手です。
わたしは長く外国人演出家のアシスタントをしてきたので、
わからない言葉で演技されても、わからない!!!←断言

言語や文化の違いを超えても伝わる演技はもちろん存在しますが、
わたしは、台詞を含めたその演技の100%がわかりたいのです。
字幕じゃどんなに足りないか、英語の映画で身をもって知ってしまって
いることもあり。日本語と英語以外の映画は、イメージビデオ状態だと
割り切って見ているような感じになりました。

映画好きな方がもしこのブログを読んでるようなことがあったら
本当にごめんなさい。

でも、映画は、不変であることに普遍性があって、それは本当に
面白いと思います。

映画は変わらないのに、時がどんどん過ぎて行く。
時代が変わる。見ている自分が変わる。

そこが面白いからでしょうか、映画は本数は大して見ていないくせに
気に入った映画があった時にはDVDを買ってしまうことが多いです。

そういう作品は、映画である以前に物語自体が好き、という
場合が多いです。
舞台も映画も、「見たい」という原動力は「物語」なので。


一番好きな映画は。。まだ出逢えていないような気がします。




薛 珠麗(せつ しゅれい)
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