「その1」に続き、その2。
「【海外】を背景幕に【日本】を見る」というテーマを最初から決めてあった
わけではなくとも、何しろ「英語」と「国際感覚」を武器に演劇をやってきた
ため、18年半のあいだ結構な数の仕事をしてきたうち、「外国」が何らかの形で
関わらない舞台をわたしは一度もやったことがない。(た、多分‥‥)
作家が外国人か、はたまた演出家が外国人か。
外国語戯曲の翻訳家として、或いは外国人演出家の通訳やアシスタントとして、
海外の面白い作品や面白い演劇人を日本演劇界にもたらすお手伝い、というのが
わたしが18年半の間やってきた主な仕事、ということになる。
しかしもう明治でも戦後でもないので、海外から来るのは「お雇い外国人」でも
なければ「GHQ」でもないし、「舶来品」への盲目的な信仰はもうとっくの昔に
廃れていると思うのだが、でも、どうだろう。
全体的に、こう、うっすらとではあるが「海外作品の方が面白い」「外国人
演出家の方が面白い」という空気が、流れてはいないだろうか。
殊にミュージカルにおいては、全体を総括した場合、やはり海外作品が質量共に
凌駕している印象だ。
(もちろん国産作品にも名作は多々あるが、ここで論じているのは全体像だ)
わたしのブログをご覧になっている方であれば(↑のタイトルで書かれた記事で
あれば尚のこと)「海外ミュージカル大好き」な方、「外国人演出家が手掛けた
舞台は面白いことが多かった」という方が多いと思う。
わたしが仕事で関わってきた日本の演劇制作者は、観客以上にそう思っている。
定期的に海外に出て次のヒット作を探しては天文学的なお金を出して買って
きたり、日本人演出家より高額の費用がかかる外国の演出家を招いているのは
彼らだからだ。
しかし、海外作品と外国人演出家、そして日本演劇界と日本の観客。その間に
ずっと立ってきたわたしの心の中で、ある一つの叫びがどんどん大きく
育ちつつある。
「【言葉の壁】は絶対に越えられない」
この、一見絶望的な一言。
ストレートプレイ作品はいいのだ。
戯曲だけなら、そこにあるのは言葉だけ。
そこに込められた作者の「伝えたいこと」を、現代日本に生きる観客に最大限
伝わるよう、必要なだけ「解体」ができる。解体して、再構築できる。
(それだって、実際やるのはとてつもなく大変なことで、全ての舞台が
それに成功しているわけでは全っ然ないと思うが)
しかし、ミュージカルとなるとそうはいかない。
100%断言するが、ミュージカルの面白さは、他言語に訳した瞬間に
損なわれている。
どんなミュージカルも、原語が絶対に一番面白い。
なぜならば、遠い日本で何年にもわたって愛されるに至るような作品は
作者たちが何年もかけて編み上げた作品だからだ。
状況、言葉、気持ち、音楽、音色、響き、声。
それが全て一丸となり、一つのエネルギー、命となって、時にもがき、
時に光を探し、そして時に飛翔するべく。
「日本語訳でもそうなっている」
そう主張する方もあるかも知れない。
しかし、原語における「ある一音を歌うのはこの言葉のこの音でなくては
ならない」の「なくてはならなさ」は訳したものの比ではない。
多くのミュージカルが曲と歌詞を一緒に、じっくりと時間をかけて
練り上げているのだ。
「どうしてもこの音とこの言葉でなくてはならない」のレベルまで。
例えば、みんなが大好きな『Wicked』の『Defying Gravity』。
最後に歌われる言葉は「bring me down」の「down」である。
この大ナンバーが辿る道のりを最初から共に辿っていると、最後が
「down」であり、そこでエルファバが飛翔することに、聴く者は涙を
禁じ得ない。
なぜ「down」で飛ぶのか、それが感動的なのか。
一瞬不思議に思われる、この組み合わせ。
ここでエルファバは「何人たりともわたしを引きずり下ろせはしない」と
歌っている。
「bring me down」は「引きずり下ろす」の部分、「down」は「下」だが
ここでは「下ろす」に該当すると言っていい。
気をつけて聴いていただければ、音楽的には「me」でぐっと引っ張り
上げられ、「down」で解き放たれているように感じると思う。
しかし「down」は本来「下」だし、音としても重く、力がこもる音だ。
では何故「down」で解き放たれるのか。
それは、エルファバが「down」で蹴っているからだ。
彼女の飛翔を止めようとするもの、地べたに繋ぎ止めようとするもの、
その全てを蹴って、飛び立つからだ。
「でも、じゃあ【me】の方が音が高いのは何故?」と思ってしまうが、
そこにある全てより「わたし」を高いところに置く、その矜持が
エルファバに翼を与えているとわたしは考える。
最後の「bring me down」のフレーズをエルファバは繰り返すが、それは
「わたしを引きずり下ろすことは誰にも出来ない
引きずり下ろすなんて!」
という、強調を目的とした部分的な繰り返しとして書かれていると思うが、
別の読み方をすれば、「bring me down」は「命令形」として独立も
できる。
「わたしを引きずり下ろすことは誰にも出来ない
引きずり下ろしてみろ!」
という解釈も成り立つわけだ。
いずれにしろ、エルファバは目の前に立ちはだかる障害の全てを自らの
力と意志ではね除けている。
タイトルだって「defying gravity」。「重力に逆らう」と直訳できる。
「defy」という言葉だけだと「反抗」「反逆」「挑む」といった意味に
なる。
日本でつけられた「自由を求めて」というタイトルも、「bring me down」に
該当する箇所につけられた「いま」「やれるわ」という歌詞も、「上」しか
見ていないように、わたしには思われる。
「下」に繋げ止めようとする大きな力に、エルファバは逆らって、
それどころか蹴って弾みをつけて、飛翔するのだ。
この歌を名曲足らしめているのは、束縛を断ち切る時にしか生まれない、
覚悟と苦悩と高揚感とパワーだとわたしは思う。
あのアホみたいに歌がうまい Idina Menzel ですら、「me」を歌う時は
限界と戦っていっぱいいっぱいではないか。
ここより高いところにある自分を獲得する、苦しみ。
それを自らの手に掴んで一気に飛び立つ「down」で、エルファバの声は
どこまでもどこまでも、広がっていくのだ。
もっと言えば、「発声」という技術の基本の一つに「地面に向かって
押すようにイメージする」というのがある。
上に引っ張る力と下に押す力、その二つの間に「歌」は生まれるのだ。
本当に全てが、想いと音楽が相乗して高みへと飛翔するように、あの歌は
書かれている、というわけだ。
『Defying Gravity』だけではない。
名作といわれるミュージカルには、こういう宝がざっくざくと物凄い数、
日本語歌詞の底に埋もれている。
断言しよう。
皆さまが大好きな海外ミュージカルは、原語の方が軽く100倍は感動的だ。
念のため断っておくが、わたしは人様の翻訳に難癖を付けているわけではない。
ミュージカルは翻訳したら本来の魅力が損なわれる、という抗いようのない
事実を言っているまでだ。
全てのメロディが特定の言葉を歌うために書かれているのだから、言葉を
変えた時点で命を失うのは当然なのだ、本当は。
第一、日本語という言語は音数が多く、ミュージカルの歌詞には物理的に
英語の1/3とか1/4しか入らないのだから、はじめから大きなハンデが
そこにあるのは当然で、仕方のないことなのだ。
「そんなこと言っても、わたしは英語がわからないんだからしょうがない
じゃない」と言う方もいるかも知れない。
「だからコツコツと勉強して原語で読んでいるんじゃないですか」と
言う方もいるかも知れない。
「そうかも知れないけど、翻訳した歌詞でも充分感動的だから、わたしは
それでいい」という方も。
実際「そんなことを言っていたらせっかくの素晴らしいミュージカルを日本で
楽しむ機会がなくなるじゃないか」という動かぬ事実もそこにはあるので、
「翻訳ミュージカル」というもの自体に異論を唱えるつもりは毛頭ない。
ただ、翻訳された舞台にふれただけではわからない、大好きな作品たちの
底力を、「ミュージカル」という表現手段がまだまだ隠し持つあらゆる可能性を
日本の演劇人、演劇を愛するシアターゴアーの皆さまにも知ってほしいと、
わたしは切に願うのだ。
物語も言葉も音楽も声も、全てが力を与え合って飛翔する歓びを、ミュージカル
役者の皆さんにももっともっと知ってほしいし。
ミュージカルって、本当はもっともっと凄いものなのだと、わたしは思っている。
それを徹底的に知ることによって、日本のミュージカルはもっともっと面白く
なり得るともわたしは信じているし、日本の物語や日本語の言葉が、「胸に迫る
音楽」という翼を生やす機会も、もっともっと増えるはずだとも信じている。
最初に書いたように、言葉の壁は越えられない。
「越えられない」は言いすぎでも、たやすく越えられるものではないし
なくすべきものでもないと、わたしは思っている。
全ての壁を取り払ったところで、そこにあったはずの「歴史」に裏打ちされた
「文化」が失われるだけだと思うからだ。
言葉の壁には窓や扉を作って、わたしたちはそれぞれ向こう側へいつでも
出かけられる「鍵」があればいい。
窓や扉は「視野」であり、鍵は「知識」ではないだろうか。
「日本語の壁」がわたしたちをぐるりと囲んでそびえ立つ強固なものなので
あれば、その中に豊かで風通しがよく、視野が広く寛容、かつ好奇心いっぱいの
王国を築けばいい。
壁をしっかりと認識することで、その向こうも、その中の自分たちの文化も、
把握できるし豊かにすることもできる。
わたしはそう思う。
そして、いつか。
世界のどことも違う、日本からしか発せられない声。
エキゾチシズムとかそういったこれまでの衣は全て脱ぎ捨て、
「日本の感性だからこそ言葉にし、歌に歌わせることができた」と世界中の誰もが
認めるような、数々の壁をものともせず世界へ満ちていくような、普遍的で豊かな
ミュージカルが、生まれたら。
もしそんなミュージカルが生まれたら、どんなブロードウェイ・ミュージカルより
ウェストエンド・ミュージカルよりもウィーン・ミュージカルよりも、感動的な
作品になるかもしれないじゃないか!
‥‥まぁそれをゴールにすべきかどうかはわたしにも正直まだわからないが、
とにかく日本の劇場は、その他の文化から生まれた作品をただ愛でるだけでなく
ただ崇めるだけでなく、より深く知ることによっても、もっともっと面白い場所に
なることができる。それだけは間違いない。
そのためにも、わたしは自分にも出来ることとして
「英語で読むミュージカル」
というテーマで講演を開催しているというわけだ。
もちろん自分としては、ここにとどまることなく、日本の劇場がもっともっと
面白い場所になるためにわたしにもできることを、一つ一つ形にしていこうと
思っている。
「芝居ほど面白いものはない!」という興奮の火の手が色々なところで
あがるためには、どんな小さな火の粉にもチャンスはあるはずだ。
そう信じている。
薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)