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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 礒沼陽子さん (拍手コメントへのお返事を追記)
礒沼陽子ちゃんが亡くなった。9月20日の未明のことだ。

ご病気されていたことを全く知らなかったので、まさに青天の霹靂だった。

陽子ちゃんとは、18年前、tptの第1回ワークショップで知り合った。
のちに13年を過ごすことになるtptで、初めて出来た知り合いだ。
陽子ちゃんは控えめでシャイだったけど、年も近いし、すぐに仲良くなった。

陽子ちゃんは美術助手としてtpt初年度から関わっていたが、わたしは
知り合った翌年、tpt2年めから制作助手→美術家の通訳→演出家の
通訳として参加した。お互いに丁稚奉公のような立場だったので、共に
今は亡きベニサン・ピットで昼となく夜となく駆けずり回ったものだ。

特に、tpt芸術監督(当時)デヴィッド・ルヴォーの演劇上のパートナー
であった美術家ヴィッキー・モーティマーの助手そして通訳として、
その仕事ぶりに共に触れ、共に刺激を受けたことは、言葉に尽くせぬ財産だ。

中でも思い出深いのは1995年の『近代能楽集〜葵上/班女』だ。
わたし個人にとっては、この時が演出家の通訳デビューだった。
また、それまでヨーロッパ(といってもノルウェーとロシアがあったけれど)
ばかりだったtpt作品にあって、この時は初めての日本人作家による作品。
しかし作家三島由紀夫が書いたト書きをそのままではなく、根本的な意味で
現代化した作品世界を形成したい、というコンセプトがあったこともあり、
作品世界を創り出すのに相当な試行錯誤を要したことが記憶に鮮やかだ。
(「試行錯誤」とはつまり、演出家美術家のビジョンを具現化するにあたり、
そのイメージを掴むための共通言語を作ることにそれまでより時間が
かかった、という意味なのだが。)

「病院で使うシーツを600枚集めてほしい」とか
「【日本最古の女】が着ていたような着物がほしい」とか
そういったような要求を、舞台監督の小川亘さんと共に、若き美術助手と
駆け出しの演劇通訳は、稽古終了後もベニサンに残って一つ一つ検証したり
「現実」や「日本人の感覚」と摺り合わせたり‥‥
要するに、延々と頭を悩ませつつも、一つ一つ現実に、近づけていったのだ。
わたしにとっては「創作」というものの根幹と関わる、初めての機会だった
ような気がする。

陽子ちゃんとはそんな時間をたくさん過ごしたり、美術家ヴィッキーと時には
色んなところに買い物に出かけたり大道具の発注に行ったり。。年に4本とか
3本という改めて考えるとかなりのハイペースでそんな濃密な経験を重ねた後、
陽子ちゃんは一旦、ロンドンに旅立った。
権威ある舞台美術学校 Motley Theatre Design Course に留学するためだ。

陽子ちゃんのロンドン留学に合わせて、というわけではないが、この時期に
友人たちとヨーロッパ一周旅行を計画した。友人たちがそれぞれの都合のいい
時に合流したり帰国したりする自由な旅行で、ルートはロンドン→ヴェネツィア
→ウィーン→ミュンヘン→パリ→ロンドン。(ただし1人は旅慣れた強者で、
この前後にアメリカに寄って「世界一周」というのをしていたが!)

ロンドンではみんなで陽子ちゃんのロンドンの自宅にお邪魔し、ウィーンと
ミュンヘンでは陽子ちゃんも合流して、総勢何と7人という大所帯になった。

ロンドンの陽子ちゃんの自宅には3人で押し掛けたのに快く泊めてくれて、
そればかりか手料理でもてなしてくれて、その手料理のあまりの美味しさと
お部屋のあまりのきれいさに、女3人で感動するやら我が身を恥じるやら。。
持参したお金が全てミュージカルのチケットに化ける貧乏旅行だったので、
陽子ちゃんのおうちでは本当に夢のような時間をすごさせていただいた。

その旅行はちょうどクリスマスの時期だったのだが、イヴは7人で、
ミュンヘンで迎えた。みんなでホテルの部屋でクリスマス会をして、
プレゼントをクジで決める大交換会を開催、大騒ぎをしたのが懐かしい。

陽子ちゃんが1年間の留学から帰国する前に、ちょっとした事件があった。
tptで『イサドラ〜When She Danced』を公演した時だ。

以前ロンドンで上演されたことのあるこの舞台、美術はロンドン公演と同じ
Bob Crowley がつとめた。しかし、日本版はベニサン・ピットと新神戸
オリエンタル劇場、とサイズや形の非常に異なる2つの劇場で公演するという
こともあり、同じデザインをかなり綿密に組み直す必要があった。
当時も現在でもまさに世界第一線の舞台美術家の仕事ということで、先方が
指名する美術助手に模型を依頼することとなった。美術家の言う「第一級の
美術助手」とはどんな人だろうと少々緊張しながら準備を進めていたのだが、
蓋を開けてみると、何とその「第一級の美術助手」とは、美術家 Bob と
同じロンドンにいた、陽子ちゃんのことだった。
ところで、もちろん Bob は陽子ちゃんがtptと関係の深い人物である
ことは知っている。だから敢えて、正式な手順を踏んできちんと迎えようと
気遣ったに違いない。

実はこの Bob Crowley という美術家は、絵を描いていた陽子ちゃんが
舞台美術を志すきっかけとなった舞台美術家なのだそうだ。
陽子ちゃんはずっと彼を「神さま」と呼んで、機会あるごとに、どれだけ
彼の作品が凄かったかを力説していた。

その「神さま」によって大絶賛のお墨付きをもらった模型は日本に届けられ、
それを元に『イサドラ』の目も覚めるようなウルトラマリンといぶしたゴールドの
セットは建てられた。

巨匠がかくも正式な手順を踏んで指名した助手が陽子ちゃんであったこと、
陽子ちゃんが「神さま」に手放しで認められたこと、は大きな驚きだったし、
喜びだった。

そんなことを経て1年の留学を終えて帰国した陽子ちゃんのその後の活躍は、
もはやわたしの説明など必要としない。

tptに限って言えば、それまで朝倉摂氏や Bob Crowley としか組まなかった
ロバート・アラン・アッカーマンが、そしてヴィッキー・モーティマーとしか
組まなかったデヴィッド・ルヴォーが、陽子ちゃんと組んで舞台をつくるように
なるまで、全く時間はかからなかった。

わたしもわたしなりに戯曲翻訳や演出に進出させていただいたが、tpt
以外でも大きな舞台や小さな舞台、様々な演劇人と組んで鮮やかな印象を
残し、賞もどんどん受賞していった陽子ちゃんのご活躍には、本当に足元にも
及ばない。

一昨日と昨日、つまり2011年9月23日と24日、陽子ちゃんの
お通夜と葬儀告別式に参列して、わたしはその思いをますます強くした。

斎場は、陽子ちゃんと最後のお別れをしようとする方で、受け付けをする
ためのエレベータにも行列する、という状態だった。
祭壇を囲むように並べられたお花には、紀伊國屋演劇賞か読売演劇大賞か、
と見紛うばかりの名前がズラリと並んでいた。

陽子ちゃんが関わったプロデューサーさんたちはもちろん、tptで共に
舞台をつくったプランナーやスタッフの皆さん、陽子ちゃんと同じ舞台美術家の
皆さん、俳優の皆さん。。わたしにとってお通夜はまるで同窓会のようだった。
陽子ちゃんだけがいない、同窓会。

通夜ぶるまいの会場では、陽子ちゃんの作品が幾つか展示してあった。
作品リスト、舞台写真や図面、衣裳デザインと衣裳を着た出演者の写真などの
パネルが何台かと、セット模型が4つ。

4つのうち2つが、わたしも一緒にやった作品だ。

1つが特に思い出深い。1999年tpt『橋からの眺め』。
1950年代のブルックリンのアパートを再現したセットは、床や石畳の
質感や、上階を感じさせるスケール感、階級や暮らしを生々しく感じさせる
ディテールがリアルのみならず、映画的に場所が飛ぶかと思えば
回想の中で時間が飛ぶという演劇性も必要な難しい戯曲(そして演出)に
応える抽象性も兼ね備えた、秀逸なセットだった。

会場に飾られた模型は、質感やディテールも見事に再現してあった。
礒沼陽子のセットを「細かい」と言う人は、一度その模型を見てみるべきだと
わたしは思う。

この作品の1回めの美術ミーティングが、わたしは忘れられない。
演出家アッカーマンが「ここの壁はこういう感じになったらどうだろう」
というようなリクエストをしたところ、見事に作り込んだその壁の模型を
陽子ちゃんは「こう?」とベキッとへし折り、ハサミでジョキジョキと整え、
模型の中に置き直して見せた。驚いたのは演出家だ。いいのか、と問う
演出家に、陽子ちゃんは「だってもういらないでしょ」と微笑んだ。
演出家は「勇敢な人だね」と思わず陽子ちゃんをハグした気がする。

久しぶりに再会した模型の中の、質感やディテールも完璧で複雑な手すりまで
ついたその壁を見て、そんなものをその場で切ってしまう陽子ちゃんの豪胆さに、
わたしは久々に惚れ惚れし、そして、嗚咽した。

隣に飾られていたのは、同じく1999年、tpt『令嬢ジュリー』だ。
このセットは、家具や小道具などはリアルながら、壁はぬめぬめと有機的に
光る金色で、まるでどこまでも続く洞窟のような形をした部屋になっていた。
女体の奥底が秘める血みどろな業をそのまま具現化したような、そのセット。

模型の隣の舞台写真に、鳥のモビールが映っている。
このモビールは、舞台稽古になってから(つまり開幕も間近になってから)
演出家ルヴォーがリクエストしたものだったと記憶している。唐突な
リクエストに、陽子ちゃんはびっくりするほど即座に応えた記憶がある。
写真の中で、モビールに吊られた鳥たちは白く清らかに飛んでいる。
しかし、鳥たちの投げかける影は、まるで部屋を覆い尽くす幽霊のように
ゆらゆらと揺れていた。そんなふうに記憶している。
主人公ジュリーの可愛がっていたペットの小鳥がまな板で首を斬られて
殺される、という残酷な場面が主人公の行く末を暗示するこの戯曲に、
何とぴったりな、鮮烈なイメージか。
演出家デヴィッド・ルヴォーと、舞台美術家礒沼陽子と、照明家沢田祐二に
よる、類い稀なるコラボレーションの賜物であった。
この舞台写真は、お通夜と葬儀告別式に参列した全員に贈られた。

思い出深い、そしてそれ以上に素晴らしい珠玉の作品の記録が、そこには
たくさん並んでいた。そして驚くほど様々な顔ぶれが、その前で陽子ちゃんの
仕事を振り返って泣き、ため息をつき、時に笑って、そしてお互いに
寄り添い合った。

42歳、と人としても女性としても演劇人としても、まだまだこれからの
年齢だと、同世代のわたしですら(!)思う。でもこの若さでこれだけの
作品を世に送り出し、これほどたくさんの、そして多岐にわたる人々に、
惜しまれる人が他にいるだろうか。

他にはいない。
そんな人は陽子ちゃんたった一人だけだ。
礒沼陽子は本当に、唯一無二の存在だ。

間近で見る演劇人としての陽子ちゃんが、とにかく粘り強くてとにかく
(いい意味で)物凄く頑固で、誰よりもとにかく働いたことであるとか。

友としての陽子ちゃんが、いつも親切で義理堅くて、びっくりするくらい
揺るがない器を持った人であることとか。
ベニサンでの稽古の帰り、東京駅のコンコースのカフェで恋バナや
悩み相談やバカ話をしては、それぞれの終電で帰った日々だとか。

人としての陽子ちゃんが、本当に素敵なご家族といつも仲良く過ごされて
いたこととか。
(礒沼家の皆さんといったら、わたしがいた頃のtptの名物一家だった
のだ。初日前、仕込みの時期になると、それはもう豪華で美味で、
可愛らしいかごに美しくラッピングまでされた、名物手作りカツサンドを
届けてくださったものだ)

女性としての川本陽子ちゃんが、優しいご主人と本当に素敵なご夫婦で
羨ましいばかりであったこととか。
みんなで新居に押し掛けては惚気られていたこととか。

本当に、尽きない。
本当に、信じられない。

お通夜でも、葬儀告別式でも、その後に友人知人たちと交すたくさんの会話でも。

とにかく、元気でいようと。

一本一本、大切にしようと。

「また一緒に、芝居しようね」と。

そればかりを、誓い合った。

「陽子ちゃんの代わりに」とか「陽子ちゃんの分まで」なんて、とても、
言えないけれど。

だって、悔しいじゃないか‥‥!

喪主の挨拶でご主人がおっしゃった「持ち前の強い意志」「完全燃焼の人生」が
忘れられない。

いや、忘れてはならないと思う。

「陽子ちゃんに負けないように」は絶対に無理だから、せめて
陽子ちゃんに笑われない程度、恥じない程度に。

‥‥といったって、それだってわたしには大変なのだけど。

見ていてね、陽子ちゃん。
これからも、いつまでも。
あなたの背中、追いかけて走るから。

演劇人の性だろうか。
仏式の葬儀告別式ゆえ機会がなかったけれど、わたしは陽子ちゃんに
拍手を贈りたかった。
陽子ちゃんの思いをしっかりと届けてくださった、ご主人にも。
走り去る陽子ちゃんを、わたしは拍手で見送りたかった。
その時にはできなかったけれど。
合掌の代わりに、惜しみない拍手を。

礒沼陽子ちゃんに、惜しみない永遠の、拍手を。

(敬称略)


薛 珠麗(せつ しゅれい)Shurei Sit



拍手にいただきましたコメントへのお返事を、続きに追記しています。
(2011年10月11日)

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