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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 今の日本で考える。
今の日本について考えていること、書きました。

ちょっと殴り書きかもしれませんが、正直な考えです。




薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)



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2015年8月30日、SEALDs が呼びかけたデモに参加するため、わたしも国会前に行きました。

その行動についての思いは、こちらの一連のツイートに書いた通りです。

事前アナウンスがあった「デモ前に高校生が『民衆の歌』を歌う」というイベントも、自分の人生と縁浅からぬ歌でもあることだし、参加しました。

「830国会前」をわたしは自分なりに体験しました。ジャングルのように林立するプラカードを片っぱしから見上げて読み、わたしの見た景色を写真や動画に撮り、徒歩でその場を離れて帰宅の途についてからSNSでそれらを共有しました。

8月30日のツイッターはこちらからどうぞ。


その際にFacebookの方に書いた文章も、こちらに転載しておきます。

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歴史の瞬間を見届けてきました。

まさに「老若男女」、小さな子連れも、
ベビーカーも、車椅子も、年配のグループも、
あらゆる町や市、大学、職業の団体も。
開始後すぐに車道が開放されました。
実に秩序正しい、見事なデモでした。

これを組織したのが大学生の集団!
先頭に行ってみたら、たまたま目の前でSEALDs
代表の奥田愛基氏が拡声器を担いで
コール&レスポンスをしていました。
太鼓が打ち鳴らされ、それぞれ拳を振り上げ
声を張り上げて、凄い気迫でした。そしてノリノリ。

高校生も立派なスピーチをしました。
おじいさんたちが拍手しながら聞いていました。

わたしは主にプラカードを読んで回っていました。
平和を訴えるもの、
集団的自衛権の廃案を訴えるもの、
首相の退陣を求めるもの。
たくさんのメッセージがそれぞれのプラカードに
書かれていましたが、一番強く伝わったのは
「平和への願い」だったとわたしは思います。

国会前は車道が完全に開放されたので、
人がどんどん、塊で流れ込んできていました。

SEALDs 発表によれば、延べ人数35万人。
日本はとうとう変わり始めたのかもしれません。

帰りはお堀端の劇場まで歩いてみました。
歩いてみるとやっぱり近い。

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わたしは一言も「そのデモに共感している」とは言っていないのですが、デモに参加したことが原因と思われるフォロワーの一時的な減少があったことが気になりました。
「デモに参加した」ということ、その一つだけで誰かにレッテルを貼る、という行為があるとしたら、それにわたしは同意できません。

ので、いち日本国民、いち市民、いち個人、いち演劇人としての、わたしの立場をここに簡単に書いておこうと思います。

まず、前提として。
わたしは日本国籍です。日本に生まれ、日本以外の国には住んだことがありません。
日常や仕事上名乗っている「薛」の姓は、中国に中国人として生まれ、生後間もなく香港に移住して香港人となるも、人生の2/3以上を日本で生きた、父親の姓です。しかしわたし自身は生まれた時から、日本人である母親と同じ日本国籍を持ち、苗字も本名は日本の苗字になります。つまり「薛」というのはいわゆる「通名」です。
しかし、日本の教育は一度も受けたことがありません。幼稚園から高校卒業まではインターナショナル・スクール、大学は国際基督教大学を卒業しました。
言語は日本語と英語。中国語や広東語は一言も話せません。


■政治意識について


【デモ】という形での意思表示についてはわたしは賛同します。
更に発展して【スト】も日本にはもっとあるべきだと考えています。
そしていずれも、【非暴力】というのを絶対条件と考えています。

日本の社会には確実に【デモ】に対する冷笑の空気があることを感じますが、わたしはそれを非常に残念に思います。
もっと言えば、それは【日本の社会の幼稚性の表れ】と考えてもいます。
日本では(ここ数週間で急速に変化したかもしれませんが)恐らく多数派であろうその空気、日本から一歩世界に出れば、どちらかというと少数派、むしろ特殊である、というのがわたしの認識です。
「世界の常識がそこにある」としても、もちろん根拠としては二次的でしかありません。
選挙に投票という形で参加するのは当然として、時の政府の方向性に疑問が生じれば、それを表明する____民主的な国家の、それが自然な姿だと、わたしは考えます。

【デモ】や【スト】を「秩序を脅かす」ものとして考える人は、日本の政治に何一つ疑問がないのでしょうか?
例えば、国民に選ばれて出席を許されている議場で居眠りをする人たちの言動に、何の疑問もないのでしょうか?
その疑問に、どう解決をつけているのでしょうか?
国民によって選ばれた人々が、国民を誠実に代弁しているか、社会がより良い方向に進むために尽力しているか?を、常に当事者意識を持って注目するのが、一人一人の市民の務めではないかと思っています。
そして疑問が生じたのであれば、その時には、【非暴力】という絶対条件を満たした上で、それぞれに可能な手段で表明をするのが自然だと思います。

その【手段】には【デモ】【スト】と同様、芸術やポピュラーカルチャーも含まれる、とも考えています。
わたしがやっている演劇も、ロックなどの音楽も、絵画などのファインアートも、これまでに時代を彩ってきた名作のうち、政治的社会的思想の影響が皆無であることの方が珍しいと思います。
「政治的思想が強く反映されたものは好きではない、不愉快である」という人は多いでしょう。それは当然だと思います。個人の趣味の問題であり、何人も干渉するべきではありません。
ただ「芸術や芸能に政治的思想の影響が見える」こと自体を「間違っている」とする考え方は、これまでの歴史に照らすと「ナンセンス」と言わざるを得ないとわたしは考えます。


■世界との関わりについて


以上のわたしの言葉に対して「よその国はそうかもしれないが、日本は日本」といった反論もあるかも知れません。
そういった考え方こそまさに、前述の【日本の社会の幼稚性】だとわたしは考えます。
現在のように情報が一瞬にして全世界的に共有される時代に、「よその国はそうかもしれないが、日本は日本」という考え方は、なかなか通用しないと考えるのが自然ではないでしょうか。

そもそも、そういった考え方は「周囲からの孤立も辞さない」覚悟が必要、とわたしには思われるのですが、天然資源がほとんどなく、食料や燃料も自給自足できていない国には、非常に危険な考え方なのではないかとも思います。
しかも(ずっと日本にいると気づきにくいですが)日本は世界的に見ても、飛び抜けて天災の多い国です。
孤立の危険性は、むしろ、避けなければならないのではないでしょうか。
たとえ資源が豊富で天災とは縁のない国であっても、これからの時代、他に理解されにくい原理で社会を動かし続けることは難しくなると思いますが。

全世界に対して正々堂々と問える根拠と言葉を持った上であれば、「よその国はそうかもしれないが、日本は日本」という考えも成立するのかも知れませんが、そういった実例を目にすることは、実はあまり頻繁にありません。
日本とは違う文化に対して、日本とは違う言語を使って、きちんと説明ができないことが日本には非常に多いように思います。

そういった意味では日本という国は、地理的に歴史的に、非常に不利な条件にあります。
日本は基本的に「内」と「外」を厳密に区別する文化です。
地理的な歴史的な悪条件を超えて「外」と理解し合う努力が、これからはより一層、必要になるとわたしは考えます。

どの国や人種に対しても劣等感と優越感のいずれも持つことなく、誇りを持つ。
何ものかに対する卑下を根拠としない、誇りを。
それこそが成熟した文化の、人間の姿だとわたしは考えます。
相手によって劣等感を持ったり優越感を持ったり、というのは「幼稚性」の一つの大きな特徴ではないでしょうか。

当初の予定通りに準備を進めることができれば、5年後には世界中から客人を迎えることになるのです。
世界中からのスポットライトを浴びる中、国籍によって人への態度を変えるということが許されるとは思えません。


■現在の日本の政治について


8月30日に国会前に行った時に、わたしは「現首相への攻撃」にはどうしても賛同しかねました。

別に現首相を擁護するつもりはありません。
政治家としての現首相に関して、心を捉えられるようなリーダーシップや思想や政策や言葉や行動に触れた覚えは、記憶する限り一度もありません。いち国民として嫌悪を感じた記憶ならたくさんありますが。

特に今まさに審議されている安全保障関連法案の顛末に関しては、やり方に理屈が通っているように思えないこと、言葉を尽くして国民を納得させようという誠意が感じられないこと、そもそもの根拠が国民のためであるのかどうかがわたしには判別ができないこと、推し進めている自民党その他の側の言い分も明らかにガタガタであることを理由に、大いなる不信感を抱いています。

安全保障関連法案に関しては、内容よりずっとずっと以前に、そこがわたしは疑問です。

ですから、今わたしはいち国民として、現首相を含めた国会議員一人ひとりに、一人の大人として、政治家として、国家の未来を預けられた者として、良識と誠意と責任ある、誰に対しても恥ずかしくない言動を求めます。
(居眠りは当然ナシです。お昼寝が許されるのは保育園までではなかったでしょうか。それとも、日本にも夏季にはシエスタを導入すべきということでしょうか?それでしたらわたしは賛成、推進派です)

わたしのそういった願いは、8月30日のデモの「打倒!安倍」「安倍を倒せ!」とは一致しないものでした。
「非暴力」には言葉も含まれるとわたしは信じています。
とはいえ、あるプラカードにあった「不 安 倍 増」には爆笑してしまいましたが‥‥
(もし、830デモの主張がもっと、SEALDs 代表の一人である奥田愛基氏の中央公聴会での演説のようであったなら、わたしはもっと賛同できていたと思います。

憲法に関しては、問答無用に、時の政権が勝手にいじれるものであってはいけないと考えています。それが憲法ではないのでしょうか。当然のことではないのでしょうか。
そして安全保障関連法案をこれだけの専門家が「違憲」だと言い、与党の側から納得のいく説明が(わたし個人にとって)一つもない以上、安全保障関連法案は「違憲」なのだと信じるに至っています。

違憲でなく、しかも必要なものなのであれば、きちんと説明が聞きたい。全てはそれからではないのか。
それだけのことです。


■平和について


わたしは、親戚も友人も、世界中に散らばっています。
幼稚園から大学まで、いやそれどころか生れ落ちた瞬間から周りの環境の全てが、そして仕事にしている演劇の現場も。一瞬たりとも「国際的」でない場に身を置いたことがありません。家庭で生活を営む、学校で学ぶ、仕事をする、そういったことそれ自体がすでに「異文化間コミュニケーション」という人間です。

インターナショナル・スクールでは、自分のクラスに何種類の血が流れているか、あまり数えたことはありませんでしたが、15歳の時のクラスでは15か国の血が流れていました。その顔ぶれで、広島に修学旅行に行き、原爆ドームと原爆資料館に行き、「原爆の子の像」に千羽鶴を供え(千羽鶴は日本人が想像するよりずっと大変な、大変なプロジェクトでした!)、被爆者の女性の講演を聞きました。

学校の友達の中には、徴兵制度のある国の子供もいました。自国がどこかで戦闘を起こすたびに星条旗を振りながら校内を行進するアメリカ人もいました。20世紀史を学ぶ時は、横濱開港当時に来日した英国人お茶商人の末裔である先生が、アメリカ製、イギリス製の教科書を使いつつ、客観的な目線で補いつつ、教えてくれました(彼は3/8日本人、1/4ドイツ人、1/8フランス人、1/4イギリス人、日本生まれで国籍はイギリスでしたが、戦時中は南米に疎開していました)。

戦後の日本に生まれた人間の中で、わたしほど「戦争には断固反対」という言葉を、生きてきた重みの全てをかけて言える人間はそんなにたくさんはいないと思っても、思い上がりでも何でもないと思います。

そして今、不穏な領土問題を日本にふっかけてきている(他の近隣国にもふっかけていますが‥‥)国にも、日本の自衛隊にも、同じ濃さで血の繋がった家族が、わたしにはいます。

そして何よりも、わたしは有事の際にはあっという間に居場所を失う立場の人間です。
わたしは日本人の観客に、日本語で、演劇を届けることにしか興味がありません。
それは日本でしか、できません。
当たり前に日本で生まれ当たり前に日本で暮らす日本人とは少し違い、他の国で暮らす選択肢は、人生の中で何度もありました。
わたしは日本が大好きで、日本人が大好きで、日本で自分を問いたくて、日本という国を選んで暮らしています。
だからずっと、日本で、自分という人間として、暮らしたいのです。

これまで生きてきた人生の全てで「戦争は何があっても回避せねばならない」とわたしは主張します。

その上でわたしは、「平和のためには、武力を持つことも、武力を持たないことも、解決にならない」と考えています。

「武力が抑止力になる」と考える人が多いようですが、アメリカの例を見てください。どう見ても逆のことしか起きていません。

「武力を全く持たない平和主義」も、結局はアメリカの武力に依存することになり、それはまた別の危険を生みます。いや、現に生んでいます。

戦争は、外交の失敗なのです。あるいは、誰かが得をしたくて起こすのです。

世界の中にあって日本という国には幼稚性があるのではないか、とはすでに述べました。
経済的な自立度が低いのと災害が多いために、他国と衝突する余裕などないのでは、ともすでに述べました。
絶対に避けねばならない武力的な衝突を避けるためには、自国民にすら納得のゆく説明のできない状態で足踏みをしている場合ではありません。
諸外国とうまく交渉をする人材が、今の政府に果たして、いるのでしょうか?
それがとても心配です。

それ以上に、当然すぎることですが、誰かに得をさせるために武力衝突などあってはなりません。
日本が世界に武器を供給する国になって、得をするのは一体誰でしょう?

そして日本にとって自衛隊が、人を殺して国を守るのではなく、国外の脅威から、そして何より国内の災害から、国民の命と生活を守る組織であるということは、先日の北関東の水害で思い知らされたところです。

そもそも、次に大きな戦争が起きたら、それはもう、人類の危機になるとわたしは考えます。
戦争はもはや、かつてのような限定的な紛争では済まされなくなっていることは間違いがないでしょう。
日本が平和を享受している間に、火種は確実に世界中に広がっていきました。

中国が隣接国にふっかけている領土問題とその「理屈の通じなさ」は、第二次世界大戦の火種となったナチスの横暴を思わせるものがあります。
言い分がめちゃくちゃで、冷静な理屈が通じない、という点において。
その点では北朝鮮にも同様の脅威を感じます。

しかし正直に言って、「言い分がめちゃくちゃで、冷静な理屈が通じない」点においては今の安倍政権も大差ないと感じています。

安全保障関連法案で国中が大騒ぎしている場合ではないと、わたしは思います。
どうにか【外交】で解決しなくては。

わたしには具体的な案は何もありませんが、隣国と安易に険悪な空気を作ったり、武力に走るという短絡に陥ったり‥‥という、知性に乏しく頑迷な国に日本がならないためには、演劇も一つの力になる、必要であると、考えています。

知。
自由。
思考すること。
想像すること。
言葉を信じること。
言葉を尽くすこと。
人と関わり合うこと。
世界と己を知ること。
今を生き、未来のために夢を見ること。

全てが、演劇にはあると信じて。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
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