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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 芝居とのなれそめ その3
「芝居とのなれそめ その2」



「表現」をする仕事がしたい、と強く思ったのは15歳の秋、
修学旅行で出かけた広島でのことでした。

それまでも、何らかの形で世界へ発信する人間になりたい、とは
小さな頃から思っていました。

「お嫁さん」とか「お母さん」とか「お花屋さん」系の夢は
生まれてから一度も見たことがありません。

それも当然で、父と母は国際結婚、自宅は中国人が住む中華街、
15分歩いたところにある学校には色んな国籍のクラスメートたちが
集まって学び、彼らの家に遊びに行くと、そこはテレビでしか見た
ことがないような、芝生のお庭のある石造りの豪邸。
ご近所からは、インターナショナルスクールに行っているというだけで
「お嬢さま」扱いされ、学校では超セレブなクラスメートたちの生活を
見せつけられて「庶民」のコンプレックスを味わい。
ふわふわの髪に憧れてパーマをかければ、ご近所からは「不良」と
陰口を叩かれ。街を歩いていて浮かない格好をすれば、学校で浮く!

「平均的な日本人の平凡な暮らし」というものについての知識は
テレビや本や漫画からしか手に入らない子供でした。
「ランドセル」とか「給食」とか「ホームルーム」といった、テレビや
本や漫画でしかお目にかかったことのない世界に、どれだけ憧れたか。。

笑えるほど一貫性のない価値観の渦の中で、「自分の世界」を構築する
ことはわたしにとって非常に切実な【生存のための手段】だったし
それを世に問うことは自分という存在を肯定できるための唯一の
方法だったのだと思います。

常に【自分VS全世界】という構図で自分の外にある全てを
見ていたし、日本だってどんな外国とも同じくらい遠い場所だったから
逆に常に【世界】をみつめることができた気がします。

だから【世界へ発信】というのを何らかの形でする人間になりたい、
というのはずっと思っていました。

しかし、決定打は広島でした。
10年生の修学旅行です。日本でいう高校1年。
15の国や民族で成る30人のクラスで訪れた、広島。

原爆ドーム、平和公園、平和資料館、慰霊碑の数々__
どれも本当に衝撃的でした。

その日は原爆ドームの前を流れる太田川の川辺の階段に座って、
ぽかぽか陽気の中、お昼のお弁当を食べたのですが。
その同じ場所で、大勢の人々が水を求めて川に飛び込んだまま
亡くなったのだというのを直後に見学した展示で知り、言葉を失った
ことに始まり。

瓦と一緒に焼けて溶けた人骨や、熱線に焼き抜かれた浴衣。
爆心地のすぐ近くの石段に残った、人が高熱によって蒸発した脂の跡。
衝撃波によってぐにゃりと弾んだ鉄の橋、炭化した幼い子供。
白い壁に今も残る、放射能の雨の、黒くくっきりとした筋。

記録映画はもっと衝撃的でした。熱によって耳が落ち、唇が落ち、
歯が露出したままになっている子供。でも、原爆によって失われた
人々の、夥しい家族写真がただ画面に静かに並ぶ映像が、何よりも
強烈だったような気がします。

映画の後に、被爆者の女性の講演がありました。
12歳で被爆したその方は、独学で英語を学び、海外での講演なども
精力的にこなす方ということでした。

12歳の少女が、被爆者となる。
15歳のわたしがその時抱えていた幼い夢や小さなはじらいや
日々のささやかな、そして幸せを一つ一つ築いていくような営み。
その全てが、戦争によって、そして一発の爆弾の炸裂によって
踏みにじられた。その事実が、初めてリアルに実感できたのは
その被爆者の方が訴えるような声で、お母さまの嘆きと祈りを
語られた時でした。娘の顔に残ったケロイドを娘に見せたくない、と
療養中の娘の病床に、決して鏡を近づけなかったというお母さま。

その方は回復後、かつては鬼だのけだものだのと呼んでいた元の
敵国の言葉を必死で学び、被爆体験の語り部となり、活動を続けて
こられたのでした。何十年を経ようと思い出すたびに夜には必ず
見るという、あの日の悪夢に苦しみながら。

その語り部を、世界中の国の子供たちが一つの部屋に集まって、
聞けるという奇跡。
戦争が終わってから、また50年も経っていませんでした。

それは実に不思議な感覚でした。
資料館の展示や記録映画を見ていた時には凄惨さばかりを
感じていたのに、その講演を聴いているうちに、自分がどんどん、
光に包まれていくような気がしたのです。

想像などとても追いつかないほどの苦しみの中で亡くなって
いった人たちが、天からこの世に向かって注いでいるのは、
怒りでも恨みでも、憎しみでもない。
光のように澄みきった、そして大きな、祈りなのだ。
その大きさ、気高さに心動かされて洗われて、わたしは涙が
後から後から流れて、止まりませんでした。

平和だからこそ生まれ得た一粒の真珠のような特殊な環境で
生まれ、育った自分。
そんなわたしにしかできないやり方で、彼らの祈りを、命を、
つないでいきたい。

15歳の秋のその決心が、4年後の夏に『レ・ミゼラブル』で
受けとめた感動と響き合ったわけです。

19歳の夏から秋にかけて、広島での決心をエッセイにまとめて、
ある雑誌の賞(といっても、某ファッション誌が開催していた
「愛のノンフィクション賞」という賞でしたが)に応募したら、
何と!佳作に選んでいただきました。賞金は10万円。

『レ・ミゼラブル』の代表曲を鼻歌で歌いながら、また
原稿用紙の欄外に『レ・ミゼラブル』の英語歌詞を落書きしながら、
書いた原稿でした。

これをちゃっかり「神さまからのGO!サイン」と決めつけて、
10万円の全額を、ミュージカルのチケット代に注ぎ込みました。

大学2年生の時のことです。

芝居とのなれそめ その4



薛珠麗(せつ しゅれい)
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