___evidence*___薛珠麗's BLOG

薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 映画『タイタニック』3D (拍手コメントお返事を追記) | main | 空にリングの浮かんだこの日 >>
# 「マンガ」に読む「時代」
現在制作されている『サイボーグ009』の新作映画の3D予告を見る機会があり、
胸を熱くした。映画館のロビーに並べられたゼロゼロナンバーたちの設定が、
何というか、「壮観」ですらある。

そこに、紛れもなく「時代」が刻まれているから。

昨年の話になるが、ロングフライトの機内上映のプログラムに『銀河鉄道999』を
みつけて、およそ30年ぶりに見た時も、似た感慨を味わった。

石ノ森章太郎と、松本零士。1938年1月25日、と全く同じ日に生まれた
この2大巨匠は、いずれも「戦後の日本で生きる上での心の整理」をその作品の
原動力としていたのではないか‥‥と、大人になって、改めて考える。

子供の頃、両氏の作品はまさに花盛りであった。
(ちなみに、宮崎駿、高畑勲両氏も新作を毎週、当たり前に生み出していた頃だ。
何と豊かな時代にわたしは感性を育ててもらったことだろう!)

実はその頃から、松本零士作品に関して不思議に思う部分、あるにはあったのだ。
人間が機械の体を手に入れるほど未来の物語なのに、「四畳半下宿」など、
はっきりと「1970年代前半の東京」と特定できる要素の数々。

スター・システムを採用する氏の作品に、タイトルの枠を越えて登場する
【大山トチロー】という人物は、チビ、ガニマタ、メガネ。他にも色々、まさに
前述の「1970年代前半の東京」という背景を背負った人物である。彼の他は
みな、カタカナの名前で、容姿も実にすらっとしている。しかしその中にあって、
トチローは天才的な戦闘能力の持ち主かつ天才的なエンジニアであり、宇宙の
すみずみで伝説と認められる「戦士の銃」や宇宙海賊たちの優れた船の、
彼は設計者なのである。なおかつ、伝説的な宇宙海賊【ハーロック】にとっては
「永遠の親友」、やはり伝説的な女宇宙海賊【エメラルダス】にとっては
「永遠の恋人」。

わたしは幼い頃から人種の坩堝の中で育ったので、ごく幼い頃から
「日本のアニメや漫画の特徴は【無国籍】!」と言いきってきた。
作者は違うが『ルパン三世』などは「で?この人たちは今、何語で喋っている
わけ???」とつっこみながら見ていたわけだ。(もちろん、つっこみつつも
胸をわくわくと躍らせながら!)

しかし、そんな中にあっても、この奇妙なほどはっきりした
「【1970年代前半】VS【白人】」の対立構造が、かなり異彩を放っていた
のは事実だ。

そして約30年ぶりに『銀河鉄道999』を見て、わたしは衝撃のあまり
ひっくり返った。

機械の体を手に入れた特権階級が支配する未来の地球。
主人公=星野鉄郎とその母は最下層階級、餓えと貧しさに喘ぐのみならず、
基本的な人権すら認められていない。
それどころか彼らは何と「狩猟」の対象となり、美しい母に至っては、
殺された上に裸にされ、何と「剥製」にされて、権力者の城の大広間に
飾られていた‥‥という、「ショッキング」としか言いようのない展開。

30年後のわたしは「子供のわたしはこんな強烈なものを見ていたのか‥‥!」と
打ちのめされた。

ちなみにここでも主人公だけが日本人だ。他の人物たちは名前がカタカナで、
人種に関しては、機械だったり透明人間だったり猫型宇宙人だったりすることが多く
なかなか判別は難しいが、概ね「白人かな?」という印象。

そしてここでもトチローは登場して、鉄郎に「戦士の銃」を託すのだ。そして
そのおかげで、鉄郎は宇宙海賊たちにも手厚く扱われる。第一、鉄郎の相手役は
「メーテル」という長身で金髪の、絶世の美女だ。

物語における「日本人」の異様な地位の低さと、それと裏腹にあまりに
「選ばれたる者」である、主人公。
この大いなるギャップの奥に、強烈すぎるほどのコンプレックスとプライドが
透けて見て、わたしは目眩すら覚えたのだった。
「これは‥‥!」と、ロングフライトから降りて最初にしたのは、松本零士氏の
生い立ちをwikipediaで調べる、ということだった。

調べてみて、まさに「絶句」。

戦争の残虐と結末とその後に対する、納得のいかなさ。
怒りと悔しさに裏付けられた、大いなる誇り。

氏の創作の芯にあるのはそういった感情なのではないか、と想像できる。

そうやって考えていけば、『宇宙戦艦ヤマト』などは、もう「モロ」ではないか。
(『宇宙戦艦ヤマト』の「原作」が誰であるか、についてはもう何が何だかよく
わからないほど拗れてしまったのは周知の事実だが、氏が「設定」に携わった
ことは間違いないようなので、ここで取り上げさせていただく)

戦争で沈没した日本軍の軍艦を、わざわざ引き上げて、宇宙船に改造する。
ミッションは、ナチによく似た制服を着た敵がまき散らした放射能によって
汚染されて瀕死の地球を救うため、遠い星から放射能を除去する装置を
運んでくること。
なのに乗組員は全員、日本人。
しかも、組織のあり方や人物たちの名前などは、ノスタルジーをかき立てられる。
「古い日本」がそこにある。
映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』のラストなどは、紛れもなく「特攻」ではないか!

あの戦争についてどうしても心の整理が出来なかった人間が、心の整理を付ける
ために作った物語としか、わたしには思えない。
「放射能」「特攻」「ノスタルジー」。モロである。
戦争においては「味方」であったはずの「ナチ」を彷彿とさせる宇宙人と戦う、
というのも、逆に「整理している」印象が際立つ。

対して、石ノ森章太郎作『サイボーグ009』の背景は「冷戦」であった。

それも、米ソの対立と云うよりは、ベトナム戦争などの、冷戦によって生じた
世界の歪みが舞台である。
「無国籍」な日本のアニメや漫画の中にあっても、『サイボーグ009』の
主人公たちの顔ぶれは、ソ連(当時!)、アメリカ=ニューヨーク、フランス=パリ、
東ドイツ(当時!)=東ベルリン(当時!)、アメリカ=ネイティブアメリカン、
中国、イギリス、アフリカ=ケニア、日本と、際立って国際色が豊かだ(ちなみに、
ここでも言葉の壁はない!ない!!)。
しかしだからといって華々しい存在でも何でもなく、彼らは「肉体」という
根本的すぎる人権を奪われたいわば被害者で、しかも誰に頼まれたわけでも
期待されているわけでもないのに、サイボーグという悲哀を跳ね返すかのように、
悪から人類を救うため戦い続けるのだ。

第一の敵は、ずばり「死の商人」。
つまり彼らは、冷戦によって生じた世界の不気味な歪みと闇を敵として、
戦っていたのだ。
イデオロギーと経済が渦を巻く混沌、もはや「中心」を失った世界の、
今にして思えば、象徴のような物語。

しかし興味深いのは、ゼロゼロナンバーたちの中でも最強の戦士である主人公
009が、やはりここでも、日本人であるということだ。
いや、正確には、母親は日本人だが、父親は白人。時代を考えれば、当然
「米兵の子」と考えるのが自然だ。
戦争によって生まれたアウトサイダーがぐれつつもカーレースの分野で
世界を相手に戦うが、サイボーグ戦士の運命を与えられ、誰にも知られない
まま人類のために、身体を(サイボーグだけど‥‥)張って、戦い続ける。
しかも、フランス娘で美女でバレリーナな同胞を恋人にし、かつ、テレビ
アニメ第2シリーズでは毎週のように浮気を重ねる‥‥と云う活躍っぷり!

「日本人」である自分への、ある種の激しい自己卑下。
と同時に、対「人類」という構図の中で肥大した、プライドと気概。

なるほど、石ノ森章太郎と松本零士の両氏は、やはり同じ時代に生まれ育ち、
生きてきたのだ。

敗戦時に共に7歳であったことも大きいのだろう。
もし戦争の当事者であったならば、戦争と戦後への納得のいかなさを、
こんなにわかりやすい形で作品にぶつけることは不可能だっただろう。

子供の頃は世界の全てがすっぽりとその中にあったので気づかなかったが、
本当に「戦後」の時代にわたしは育ったのだ。
あの戦争と、その後に価値観の全てが転覆したということ、その2つを
どうにか整理して納得して、未来をみつけようと、まさに必死だった時代。

そうやって見回すと、子供の頃のわたしを取り巻いていた数々の物語には
べったりと「戦争とその後」に刻みつけられた澱が染み付いている。

たとえば、わたしの子供時代よりもう少し昔にさかのぼれば、『ゴジラ』
などは、水爆実験の影響で現代日本に出現してしまった怪獣だ。
(リメイクしたハリウッドの皆さんはどれだけ理解しているのか!)

石ノ森、松本両氏より4つだけ年上(敗戦当時は11歳)であった
横山光輝氏の『鉄人28号』は、これもわたしが生まれる前に流行した
物語ではあるが「日本軍が開発するも敗戦に間に合わなかった巨大ロボットが
悪の組織が横行して混乱する戦後日本を救う」という物語だ。しかも
操縦するのは、幼い少年。
何と象徴的であることか。

1960年代には、プロレスやボクシングや野球が広く大衆に愛され、
それをテーマにした漫画やアニメも数多く生まれたが、いずれも主人公は
貧困だったり不遇だったり虐げられていたりする。しかし根性と厳しい
練習を経て「世界」と勝負するまでになっていく。ただし、主人公が
広い世界へ飛び出して行くわけではなく、日本にあるリングやグラウンドまで
「世界」が出向いてくれるので、そこで勝負をして「世界チャンピオン」に
なるのだ。街頭やお茶の間の小さな白黒テレビで見届けられる「世界制覇」で、
大衆は日本人としての自尊心を取り戻した、というわけだ。

作家たちは恐らく、無意識だったのだろう。
夢中だったのだろう。
しかし今こうして振り返ると、戦後に世界を取り戻そうとする彼らの
「世界再構築」の試みは、涙ぐましくさえある。

その中で、やはり手塚治虫は超越しているなぁ、と思わずにいられない。
氏は敗戦当時、16歳。つまり、あの戦争においては立派に「当事者」
である。
更に当事者であった水木しげるよりむしろあっけらかんと、手塚治虫は
戦争体験を描いた。爆弾の直撃を受けて人間の頭が割れる様子はまるで水瓜が
破裂するようだとか、宝塚歌劇団を目指していた少女が顔に大やけどを負い、
戦争が終わっても元の人生には戻れなかったとか‥‥
受けとめすぎず、感傷なく、ありのままに、手塚治虫は戦争を描いた。

と同時に『火の鳥』では「永遠」を求めて狂騒する人間の終わりなき愚かさを
描き、『鉄腕アトム』では「夭折した子供の代わりに、日本の技術力で
【心を持ったロボット】を生み出す」と云う物語を生み出した。

アトムの凄いところは、「喪失」から生まれたのに、その喪失を全く
引きずらず、「技術力」と「人の心」に真っすぐ「明日」を見出している
ところではないか。

他の作家たちのように自らのアイデンティティの苦悩を作品で昇華していく
人間くささは大好きだが、この手塚治虫の客観性、超越、そして「時代」を
読み、感じながら、より根本的な作品世界へ落とし込んで表現するさまは、
やはり唯一無二ではないかと思う。

例えば、主に少年たちを対象にしただろうこれらの物語と比べて、主に少女を
対象にしたらしき『リボンの騎士』の、あの自由さはどうだろう!

‥‥と、ここでハタと気がついた。

これまでわたしが考えてきた作品は、どれも見事に「主に少年を対象にした
作品」ではないか!

では少女のための物語はどうだったろう?

『鉄人28号』をつくった横山光輝氏は『魔法使いサリー』では、ベタベタの
「戦後日本」を舞台にしつつ、そこと繋がった「主に白人っぽい住人たちが
住む異世界」からサリーという「多分、白人」な存在がやってきて、冒険を
展開する物語。

‥‥うわぁ。

少年たちが、日本人である自分を卑下しつつも、小さなブラウン管で世界制覇を
したりして自尊心を取り戻している間に、少女たちは異世界を日常の中へと
受け入れていた、というわけだ。ちょうど、女子供ばかりで守ってきた日本へ
進駐軍が入ってきたのを、迎え入れればならなかったように。

『魔法使いサリー』をはじめとして、少女向けのアニメーションは
「魔女っ子もの」が主流だったわけだが、よく考えると「【異世界】から
【ガイジンっぽい名前の主人公】が【昭和日本】や【現実とはちょっと違う
ちょっと理想化された日本】にやってくる物語」が多かったように思う。
魔法使いの少女がマミだのエミだのになったのは、もうちょっと後のお話だ。

とすると、完全に日本と切り離された「ファンタジー」という設定のもと
『リボンの騎士』を描いた手塚治虫、やはり超越している!と再確認。

いや待て。

ここまで出てきた「少女向け」物語は、いずれも男性が描いたもの。
じゃあ、女性が少女のために描いた物語は?

つまり、少女漫画はどうなっていたのか。

少女漫画の世界ではいわずもがな、「花の二十四年組」と呼ばれる、いわゆる
「団塊の世代」の巨匠たちが一斉に、馥郁たるヨーロッパの文化や嗜好を
薫き染めた世界をそれぞれに深く豊かに構築して、少女たちを夢中にさせて
いたのである。
少年たちはかつての味方やかつての敵国と向き合うのにあたって
「コンプレックスと戦う」という前置きの議式が必要だが、少女たちには
必要がない。まるでヨーロッパ映画そのままの感性で、フランスやドイツを
舞台にして描かれた物語は、のちに実際にフランスやドイツでも受け入れられ、
愛されるほどにヨーロッパの文化を余すことなく吸収していたわけだ。

そこで彼女たちが展開した物語は「いかに愛するか」「いかに生きるか」を
それぞれごくごく個人的に、慈しむように、深めていく物語で、いわば時代を
超越しているのではないかと思う。
これらの作品が登場した当時も現代も、少女の魂を持った人々は
「二十四年組の漫画を読んで影響を受ける人」「二十四年組の漫画を読んでも
影響を受けない人」「二十四年組の漫画を読まない人」に分かれる、
というだけのことだと思うのだが、どうだろう。

想像の翼が易々と様々な境界線を越えていった少女漫画の世界と違って、
「戦後の少年の物語」は「戦後」に特化していると言えるのかもしれない。

この文章の発端となった『サイボーグ009』の場合、当初のゼロゼロナンバー
たちの設定は、009は前述のように恐らく第二次世界大戦の落とし子、004は
ベルリンの壁を突破しようとした時に恋人を撃ち殺され、008に至っては
「奴隷狩りから逃亡」であった。他にも005は「インディアン故の差別を受けて
いた」という設定があり、1960年代後半の世界情勢や、ステレオタイプ的な
視点に基づいているので、2012年の世界とも、日本人の視点とも、合致しなく
なっているように思う。
10年前にリメイクされた際には設定の再構築に苦労の後が見られるが、
今秋公開される予定の最新映画の公式には「かつてゼロゼロナンバーたちによって
平和を取り戻した世界は、再び混迷へと突き進み始めた。世界の終わりに、
あの9人が世界中から集結する」とある。

確かに現実世界は、「冷戦」という構造を失い、正体のない混沌に包まれる
ようになった。冷戦の産物である彼らが再び結集して、どのような展望を示して
くれるのか。

わたしは「2012年の今、我々はどのような物語を紡ぐべきか」よりも
「2012年の今、どのような物語が時代から、わたしたちから、生まれ出るか」
の方に興味がある。


(敬称略)


薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
web拍手
| comments(0) | trackbacks(0) | 16:10 | category: |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://shurei-s.jugem.jp/trackback/129
トラックバック
Selected Entry
Profile
Comments
Mobile
qrcode
今宵の月は‥‥
Search this site
Sponsored Links