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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 芝居とのなれそめ その7 (完)
芝居とのなれそめ その6



宮本亜門さんと楽しくミュージカルをお勉強する1年間も後半に入った
1993年、春。

1年半前に『蜘蛛女のキス』で運命的な出逢いをしたベニサン・ピットを
震源に、演劇を揺るがす事件が起こりました(大げさかしら。。)

ベニサン・ピットを根拠地に、TPT(当時)が旗揚げされたのです。

『蜘蛛女のキス』以降、何度かわたしの演劇の神殿=ベニサン・ピットには
足を運んでいました。とにかく「ベニサン・ピットの芝居は凄い」という
知識しかなかったので、実は貸し館だったこの劇場で『蜘蛛女のキス』とは
かけ離れた芝居を観ては「あれ?」となることも多々ありました。

しかし、TPTは『蜘蛛女のキス』のプロデューサが、クリエイティブ・
チームをごっそり引き連れて立ち上げたカンパニー。わたしが丸暗記した
スタッフ・クレジットの面々が勢揃いしていたのでした。

しかし、演出家は違う人でした。でもやっぱり外国人。

その演出家、デヴィッド・ルヴォーのインタヴューを、当時創刊されて
間もなかった『シアターガイド』で読んだわたしは、またもや
「これだ‥‥!」と拳を天に突き上げました。

「なんか、この人の言うこと、全て分かる‥‥!」
「呼んでる!」

そう思いました。

そうして観に行った、TPT旗揚げ公演『テレーズ・ラカン』。
出演は、藤真利子さん、そして当時まだ20代の堤真一さん。

いやぁー凄かった。

ベニサン・ピットの空間全て、客席全体をも覆う舞台装置は
非現実的なパースペクティブをつけられており、舞台を観ているだけで
まるで堕ちていくような感覚と不安感を観客に与えます。
開場中に席に着くと、舞台ではもう、人物たちが静かに集まり
主人公がひたすら、登場人物をモデルに肖像画を描いている。
そうして始まった舞台。

19世紀のフランスの底辺で暮らす人々の生き様がまるで
時代を超えてその夜だけ甦ってしまったような、陰鬱にして
美しいセピア色の空間。記憶に溜まった澱のような世界。
その静謐の中で、人間の最奥に巣食う欲望と狂気がまるで
引きずり出されて顔に叩き付けられたような、エロスと愛憎が
むき出しの、でもどこまでも鮮烈で美しい舞台。

愛欲に溺れて人を殺めた主人公たちが、まるで真綿で頸を絞める
ように暴かれていくさまは本当に本当に恐ろしくて、わたしは
隣の席に座っていた見ず知らずの観客に抱きついてしまったほどでした。

『蜘蛛女のキス』が魂の奥底まで入り込むような、哀しくも
優しい世界を持っているとしたら、『テレーズ・ラカン』は
緻密で濃厚な油絵をナイフで切り裂いたような、そしてそこから
鮮血が迸り出て弧を描いたような、あけすけな鮮烈さと、
刹那的な華やかさがありました。

わたしだけがこの作品で盛り上がっていたわけではもちろんなく
翌年、TPTは旗揚げの年にして、読売演劇大賞の大賞をはじめ、
演劇の賞という賞を総なめにします。

2か月後に上演された旗揚げ2本めも凄かったです。
当時ブレイクしたばかりの豊川悦司さんを主演に迎えての古典劇
『あわれ彼女は娼婦』。
双子の兄妹の近親相姦の物語、最後には兄が妹を刺し殺し、
その心臓を短剣に突き刺して現れて、彼らをそこへ追い込んだ
周囲の人々を血で染める。。

ベニサン・ピットを360度使い、抑圧を表現するかのような
くぐもったタンゴで進行する舞台でした。しかし、ラストシーンでは
真っ白な光と布が空間全体を覆い、それが飛び散る血によって
鮮やかな深紅に染められていく。色白な豊川さんが、真っ白く
たっぷりとクラシックなブラウスごと真っ赤に染まっていく様子は
まるで反逆の華のようでした。

この鮮烈でエロティックな舞台を創った若き鬼才が、
日本でカンパニーを立ち上げた!
そして、何と一般人にも門戸を開いてワークショップを開催するという
ではないですか!

わたしはもう、壁を駆け上ってしまいそうな興奮状態でした。

そうしてわたしは、ベニサン・ピット併設の稽古場に初めて
足を踏み入れたのです。

そのワークショップとは、2週間にわたってデヴィッド・ルヴォーが
台本を読み解き、参加している俳優或いは俳優のたまごたちに
実際に場面を演じさせ、それを演出していく、というもの。
今ではそういった形式のワークショップは盛んになりましたが
1993年にTPTが開催したそれが、さきがけでした。

1日めに驚いたのは、亜門さんのワークショップの仲間が一人、
参加していたこと。それどころか、亜門さん自身も参加していた
ことでした。でもそれどころではなく、堤真一さんや岡本健一さん
なども当たり前のように毎日どんどん顔を出して、参加します。
そこではわたしが最年少くらいで、ほとんどがわたしは知らなくても
舞台で実績を積んでいるプロの俳優や、自己紹介されるまでもなく
舞台で見慣れたメンツなどが参加していたのでした。

デヴィッド・ルヴォーは強烈でした。平坦に見える場面でも
彼が読み解くと、人間の業が渦巻き、生きるか死ぬかの斬り合いの
ように、命がけの瞬間になります。まるで平面に書かれたグラフが
目の前で音を立てて立体へと立ち上がるような、そんなダイナミックさ。
しかもその原動力となっているのはいつでも人間を突き動かす
根源的な欲求で、そうやって彼が創る場面はいつでもエロティックな
魅力があり、観ているだけで体中の細胞がふつふつと興奮してきます。

はっきりいって十人並みな容姿の役者のたまごでも、デヴィッドの
手にかかると命滴り色気が滲み出てきて、瑞々しい輝きを放つのです。

「台本を生身の人間が演じるということは、「生きる」ということの
全てを舞台に再構築することなのだ!」
求めていた数々の答えを、次から次へとぽんぽん投げつけられる2週間。

そこで、わたしはずっと忘れていた一つの事実を思い出します。

自分には英語ができる、ということです。

演劇の仕事をするためにそれを武器にしよう、という発想が
それまでわたしの中では不思議とありませんでした。

「そうか!英語は武器になるのか!」

そう盛り上がったのは、デヴィッド・ルヴォーとその通訳を務める
垣ケ原美枝さんの仕事の様子を、初めて見たからでした。

垣ケ原美枝さんというのは、何と『レ・ミゼラブル』でも
『蜘蛛女のキス』でも『テレーズ・ラカン』でも演出家の通訳を
務めたという方で、故にわたしの中ではスーパーウーマンでした。
全世界で出版された『レ・ミゼラブル』の解説本の中でも
演出家ジョン・ケアードが絶賛したという功労者!新聞や雑誌や
メイキング番組などでもよく取り上げられていた方でした。

デヴィッド・ルヴォーと垣ケ原美枝さんの絶妙な呼吸を見ながら
「こういう手があるのか」とわたしは思っていました。

「これ、わたし、できるような気がする。。」
「‥‥いや、むしろ得意かも!」

僭越にもそう確信したわたしは、早速そのワークショップ中にデヴィッドと
美枝さんの後をついて回って、美枝さんの手が回らない時など
めざとく見つけては通訳に入ったりし始めました。

何しろ、天才の隣にいられる!
天才の言葉を直接浴び、自分の身体を通して表現できる!!
こんなに勉強になることがあるだろうか!!!

これで、道は定まりました。

翌1994年、わたしはアポなしで、『レ・ミゼラブル』の
稽古場から稽古を終えて出てきた演出家ジョン・ケアードと
その演出家アシスタント垣ケ原美枝さんに、突撃しました。

TPTのワークショップの時のように、お2人の了解を得て
お2人の回りをうろちょろし、わたしなりの修行をしようと
いうわけです。
若気の至り以外の何ものでもありません。
(良い子は真似をしない方がいいです。
晴れてプロになった時に大恥かきます)

若気の至りの何が恐ろしいって、実際に実現してしまうことが
ある、ということだと思います。
あの時のジョンの寛大さ。いま振り返っても信じられません。

そして垣ケ原美枝さんも、この無謀なコムスメには熱意があると
思ってくださったのか。
春にはデヴィッド・ルヴォーが再び来日して、TPTの2年めの
シーズンが始まる、と教えてくださいました。
英語が喋れる人なら幾らでも仕事がある現場だし、
よかったら紹介してあげる、と。

そうして、大学を1994年3月31日付けでやっとこさ卒業した
翌日の4月1日から、わたしは憧れの神殿ベニサン・ピットに通い、
TPTに丁稚奉公に入りました。


最初は制作の見習いと、デヴィッド・ルヴォーの演劇上の
パートナーである美術家、ヴィッキー・モーティマーの通訳から
入り、翌1995年からはデヴィッド・ルヴォーの通訳を始めました。
1997年からは遅れてTPTに参加したロバート・アラン・
アッカーマンの通訳を始め、翌1998年には翻訳した戯曲が初めて
上演されました。『勝利』というタイトルの小品でした。
1999年にはアーサー・ミラー作『橋からの眺め』(アッカーマン
演出、堤真一さん主演)で本格的に戯曲翻訳デビュー。その頃から
通訳の他に「演出助手」の肩書きもいただき、ルヴォーとは10年、
アッカーマンとは12年間、多い時だと年に4〜5本のペースで
共に作品をつくりました。

2002年、新キャストによる『蜘蛛女のキス』再演で初演出。

翻訳作品の代表作は、2001年に上演した『ブルールーム』
(デヴィッド・ヘア作、ルヴォー演出、内野聖陽さん秋山菜津子さん主演)
そして2004年に新訳で初演した『エンジェルス・イン・アメリカ』
(トニー・クシュナー作、アッカーマン演出)です。どちらの作品でも
作品や関わった皆さんが賞などもいただき、思い出深い作品です。

『エンジェルス・イン・アメリカ』は2007年に再演され、わたしは
そのさい演出補として8週間の稽古期間のうち演出家の来日までの
7週間のあいだ稽古の演出を担当し、それを最後にtptを離れました。

2008年春『バーム・イン・ギリヤド』、そして
2009年初春『ストーン夫人のローマの春』で戯曲を翻訳し、
2008年秋にはとうとう『1945』という新作戯曲を発表しました。
3本作品とも演出はアッカーマン、わたしは通訳と演出補も兼ね、
『1945』は彼との共作になります。

演出家としても、2006年から2007年にかけて、ギィ・フォワシィ
シアターという集団で立て続けに3本の演出を手掛けました。

2009年には『バーム・イン・ギリヤド』の翻訳に
小田島雄志翻訳戯曲賞という賞をいただきました。


そうして、現在に至ります。


(敬称略)



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# 芝居とのなれそめ その6
芝居とのなれそめ その5


そういうわけで、大学時代のわたしはノリノリの絶好調でした。
「これだっ!」という言葉で、わたしの頭は常にワンワン
鳴り響いている状態。

じゃあわたしは、何になりたかったのか。

とにかく「創る人」になりたかった。
脚本とか、演出とか。

出る側になりたい、というのはただの1度も思ったことがありません。
しかし、オーディションには1度だけ、応募したことがあります。

『レ・ミゼラブル』の初演の時に「◯◯◯◯人の中から選ばれた」
と具体的な人数が宣伝材料に使われていたので、『ミス・サイゴン』
でもそうするだろう、その数千人の中に入りたい!というだけの理由で
『ミス・サイゴン』初演キャストの一般公募オーディションの際、
履歴書と写真と歌を録音したカセットテープを送ったのでした。

ところがこれが何と書類審査を通ってしまい、赤坂までヒロイン=キムの
ソロを歌いに行ったのでした。オーディション現場には、当時すでに
『レ・ミゼラブル』アンサンブルキャストとして活躍し、のちに
『ミス・サイゴン』ではジョン、『レ・ミゼラブル』では
ジャヴェール→ヴァルジャン役を努めることになる今井清隆さんも
いて、びっくり仰天!もちろんわたしはすぐに落とされましたが、
貴重な経験、いい思い出です。

という経験をしつつも出る側にはこれっぽっちも興味がなく、ひたすら
「創る人」になりたかったわたし。
それも、当時は「ミュージカルを創る人」でした。

でもどうしたらいいかわからないので、まず最初に何をしたかというと、
好きなミュージカル・ナンバーの歌詞をどんどん翻訳しました。
オリジナルの英語歌詞はどれも、学校でふれたどんな文学よりも豊かで
ドラマと情感に溢れ、どうしてもわたしなりに形にしたくなり。

【市村正親さんの出待ちをして、自分なりに翻訳した『オペラ座の怪人』を
手渡す】などという【若気の至り】もしでかしました。
市村さんはその場でそれを開き、ワンフレーズ歌って即座に「音楽的じゃ
ないね」とダメ出しをくださったものです。褒めてもらえると思っていた
二十歳のコムスメは結構ショックでしたが、いま思うと本当にありがたくて
涙が出ます。
後年、何本かのお仕事やその他の現場で市村さんとご一緒する機会が
ありましたが、最初の頃はずいぶん、その話をネタにしてくださった
ものでした。

そんな頃に、雑誌でとびきりのニュースが発表されます。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いの新進演出家、宮本亜門さんがミュージカルの
スタッフ、或いはスタッフになりたい人を対象に、1年間という
長期のワークショップを開催する、というのです。
審査は作文と面接、募集している人数は5人。

この「5人」に、21歳のわたしはまたもや「これだっ!」と
思いました。

「愛のノンフィクション賞」で佳作に入選した時も5人。
『ソワレ』のロンドンミュージカル特派記者の時も5人。

「5人」はわたしのラッキーナンバーと化していました。

かくしてノリノリで得意の作文を書き、そしてめでたく面接に呼ばれ
わたしは会場となった亜門さんの実家の新橋の喫茶店に向かいました。

生まれて初めて身近に接する本物の演劇人!
亜門さんは当時32歳、その年齢にして大型ミュージカルも手掛け、
小規模作品では新たな試みを次々と打ち出す、最先端の演劇人!
若さと才覚をきらきらと振りまくような存在感。
でも気さくで、さすがに話を引き出すのが鮮やかで、自分を出す
までに時間のかかるわたしなのに、気づけば一番話したいような
ことを一番わたしらしい感じでハキハキと話せていました。
少人数のグループで丸いテーブルを囲んでのおしゃべりのような
面接でしたが、別れの挨拶の時に、こちらがお礼を言う立場なのに
逆に恐縮してしまうほど丁寧に頭を下げられた亜門さんは、
わたしの目をしっかりと見てくださいました。

「もらった‥‥!」またもや心の中でガッツポーズのわたし。

しかし、残念ながらわたしは落とされてしまいました。
「気のせい」とはとても思えない手応えを感じていたわたしは、
落胆というよりは「あれ?おかしいな。。」という感じでした。

しかし、それから1年が経つ頃。
亜門さんが「ミュージカルスタッフ・ワークショップ」2年めの
募集を行う、という発表がありました。
今度は『ぴあ』にカラーの広告が載り、審査も「作品提出」と
いう項目が加わり、より大がかりに!

1年の間に「ミュージカルを創る人になりたい」という希求が
膨らんで、色んな舞台を観ては興奮のあまり泣いたり怒ったり
毎日がジェットコースターのようだったわたしは、またもや
「これだぁー!」と大騒ぎ。

自分の人生の扉が目の前で開かれるような、そんな感覚でした。

しかし、その発表を知った、まさに翌日。急転直下の出来事が。
母親が緊急入院、いきなり危篤状態に陥ったのです。
それはまさに、天国から地獄への転落でした。

わたしがまだ小さい頃に初めて大病をして奇跡的に生還して以来、
何度か入院していた母ですが、今度こそダメかもしれない。。と
腹をくくらざるを得ない事態でした。

大学は夏休みだったので勉強はしなくて大丈夫でしたが、
わたしは母の看病と全ての家事と英会話の家庭教師のアルバイト、
と駆けずり回る生活。頑張りすぎて病院から家庭教師先に向かう途中
自転車で派手に転んで右半身を血だらけにしてしまった時は、
色んな想いが溢れ出して、道の真ん中で泣き出したものでした。

母の容態が少し落ち着いた日に「これだけは観たい」と観に行った
亜門さんの舞台が忘れられません。

亜門さんの出世作『アイ・ガット・マーマン』の再演でした。

ブロードウェイの女王と謳われた大スター、エセル・マーマンの
人生を粋なキャバレー・スタイルのショーにまとめたこの作品。
華やかな舞台キャリアを誇るエセル・マーマンですが、実人生では
娘を亡くす、という不幸に見舞われています。そして皮肉にも、
マーマンの代表作はミュージカル『ジプシー』のステージママ、
ローズ役。『アイ・ガット・マーマン』では、娘を亡くす場面で
マーマンは『ジプシー』の代表曲『全てが花開く』を歌いました。
「ママに全部任せなさい ママがあなたをスターにしてあげる!
あなたなら絶対なれる!」そう豪快に歌うマーマンを演じる
諏訪マリーさんは、自身も最愛のご主人を病で亡くしたばかりでした。
そして宮本亜門さんご本人も、演出家への道を大きく踏み出すきっかけと
なったのは、最愛のお母さまの急死だったといいます。

その瞬間も病院で命の戦いをしている母を思い、博品館劇場の
一番後ろの補助席で舞台を見守りながら、息を殺して泣きました。
「これが母からの最後のメッセージかもしれない」と、その時は
確信していました。

どうしても、演劇の道に進まねばならない!という覚悟と、
演劇の道という業への覚悟と、母の命の行方と。。
色々な意味での覚悟をしたのをよく覚えています。

しかし!神さまは二度めの奇跡をもたらしてくださったのです。
母は二度めの生還を果たしたのでした。一度回復の軌道に乗り始めると
母はぐんぐん元気になり、夏の終わりには無事に退院。
本当にありがたいことです。

わたしは今度はその嬉しさとありがたさで上昇気流に乗り、
亜門さんに提出するための作品を超特急で書き上げました。

2年めの面接の時のことはよく覚えていません。

覚えているのは、「ミュージカルスタッフ・ワークショップ」の
開催第1回めの時に、亜門さんに「去年はごめんな。1年めだった
から、女の子をとる自信がなくて」と言われたことです。

22歳の秋から、そのワークショップは1年間続きました。
「ワークショップ」と云っても、1年間のあいだ毎月2回集まって、
色んなテーマで調べものをしたり発表をしたりという、【勉強会】
といった感じの集まりでした。亜門さんとメンバー5人の計6人で、
「振り付け師の歴史」について調べて発表したり、特別講師が
話しにきてくださったり、亜門さんの舞台の舞台稽古を見せて
いただいたり、時にはみんなでごはんを食べたりして。
1年の最後には全員で1本ずつ、ミュージカルの脚本を書きました。

しかし、亜門さんは別に、将来の面倒をみてはくれません。
仕事をくれるわけでもありません。
ワークショップは個人的に催していたものだったので、亜門さんの
回りの人脈と知り合う機会もありません。

大学にほとんど行かず、「ゼミ」とか「就活」とか、みんないつ
どこでいつの間にやってたの?という感じだったわたしも、さすがに
卒業後を考えなくてはならない時期になっていました。

ちなみに大学の方ですが。。

ひどい時は授業に全く出ず、最後の授業の時に早めに教室に入り
入ってきた学生に「この授業はテストですかレポートですか」と質問し
教えてもらって「ありがとう」と教室を出てテキストを調べ、自分の
好きな時間に勉強してレポートだけ提出。。とかテストだけ受ける。。
とか、言語道断なことをやっておりました。
わたしは9月入学なので最短だと3年半で卒業が可能だったのですが
それはもちろん最初から狙わず、4年半での卒業を狙うも、何と
体育の単位が足りずに留年。。という目も当てられない学生。
結局5年半で卒業しましたが(でも追試でやっとだったので卒業式に
出席する権利は与えられず。。)さすがに最後の1年分の学費は
アルバイトして親に返しました。

卒業後の見通しは見事に何一つありません。

雑誌『ソワレ』創刊記念のロンドン旅行後、そちらの編集部でライター兼
編集アシスタントとしてアルバイトさせてもらい、小さなページの
タイトル決めから原稿執筆まで任せてもらえたりもして、演劇界の
周辺には少しずつ近づけていたのですが、わたしがなりたいのは
【創る人】だったので、それでは足りませんでした。

そんな娘をはらはら見守っていた親は、得意な文章を認めてくれる
場所があり、演劇も身近な場所なのだから、そのまま『ソワレ』編集部で
アルバイトでも続けて、ゆくゆくは雑誌のライターか編集者に。。とか
そういうことを望んでいたと思います。

【演劇を創る人】に本気で「なれる」とは誰も思っていなかったし、
わたしが「本気でなりたいのだ」というのも誰も信じてくれませんでした。
親はもちろん、ロンドンに連れて行ってくれた『ソワレ』の皆さんにも
キョトンとされたものです。
父親にも「スーパーマンになりたい」と言っているのと同じだ、と
言われていたようでした。

でもわたしには、全く!理解できませんでした。
マントひとつで空を飛べる人は(多分)いないけれど
ミュージカルを創る人なら現実に存在する。
その一人にわたしもなれない、なんてどうして言えるの?
なれる人がいるとしたら、それはわたしみたいな人なんじゃないの?
いま思えば、何の根拠もない自信です。でも、不思議と確信がありました。

ある時、母はストンとわたしの本気が理解できたらしく、それまでは
泣いてばかりいたのに、いきなり観念したように応援してくれました。

でも、具体的にはなぁぁぁんにもナイ状態。


大学5年生になっていました(笑)


芝居とのなれそめ その7





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# 芝居とのなれそめ その5
芝居とのなれそめ その4



一世一代のロンドンラッキー旅行から4か月後には、2度めの
ロンドンに、おっかけ旅行に出かけていたわたし。

ツチケムリをあげて旅立ったのは、人生で出逢った2人めの
最愛のアンジョルラスさまの出演契約が終了するまでに行きたかった
からでした。

(最初の)ロンドン旅行は2つの大事件はもたらしたわけですが、その2つめ
である【わたしの人生最大級の出逢い】もまた、アンジョルラスが遠因でした。
(‥‥我ながら、どんだけ好きなんだと。。)
(最初の)ロンドンの、ひと月後。

それは、1本の芝居との出逢いです。

1991年12月、『蜘蛛女のキス』初演。
演出はロバート・アラン・アッカーマン。出演は村井国夫と岡本健一。
劇場は、ベニサン・ピット。

今でこそ舞台での活動が目立つジャニーズ事務所さんですが、当時は
『唐版・滝の白糸』と『ペール・ギュント』という前例があったのみ
(いずれも蜷川幸雄さんです。当時から続けておられるのですね!)で
非常に新しい試みでした。しかも、日生劇場と青山劇場だった
前の2本と違って、今度は150人も入らない小さな劇場!

10代の頃には岡本さんのアーティスティックな感性に絶大な信頼を
おく少女だったわたしは、前述の雑誌『ソワレ』で岡本さんがこの舞台に
おいて尋常ではないくらい演劇的な刺激を受けているのを知り、
物凄く心惹かれました。

しかも!岡本さんが演じるのは、【革命家】!!!

ロンドンで出逢った最愛のアンジョルラスさまの幻を追いかけるように
日々を生きていたわたしには、何よりのキィワードでした。

そうして、わたしはいそいそと、隅田川の向こう岸へと出かけたのでした。

【ベニサン・ピット】というその劇場で、のちに人生の実に13年を
過ごすことになろうとは、その時は夢にも思わずに。

今は亡き、ベニサン・ピットとの出逢い。
『蜘蛛女のキス』との出逢い。

わたしの全てを変えた出逢い。

言葉が想いに追いつきません。

生まれて初めて、わたしは自分を忘れ去りました。
自分の人生も忘れ、自分の名前も忘れ、わたしは世界のどこよりも
濃いベニサン・ピットの漆黒の暗闇に溶かし込まれたまま、
彼らの命の輝きを、人間の尊厳への叫びを、みつめていました。

ラストシーン、時間の中にぽっかりと空いた丸い光の輪の中で
絶望に囚われたままお互いをただみつめる2人の姿は、それから
18年たとうとしている今も、わたしの心の一番深く暗い場所で
永遠に止まったまま佇んでいるような気がしてなりません。

一挙手一投足が。
空間が。
陰影が。
むせび泣くようなアルゼンチン・タンゴが。

この世に、こんなにも心迫る世界があったのか。

このさき何年生きるとしても。
どんな舞台と出逢うとしても。

これほど魂に深く楔を打たれることは、生涯、ないのじゃないか。

その瞬間から、ベニサン・ピットは神殿となり。
この舞台に関わる全ての人たちは、演出家以下、わたしにとって
「演劇の神さま」と化し、わたしはプログラムに載っていた全員の
名前を暗記しました。

ミュージカル娘だったわたしですが、ミュージカルとか
ストレートプレイとかの垣根など、どうでもよくなるほどの
圧倒的な「本物」がそこにはありました。

「こんな舞台を、わたしは創りたいのだ!」

最初の衝撃が落ちついてきた頃、わたしの中には
その言葉だけがはっきりと残されていたのでした。



ここでは「芝居とのなれそめ」を書いているので
本当は「後日談」は書かないようにしているのですが。。。


この3年後には『蜘蛛女のキス』チームによって旗揚げされた
集団TPTにわたしは参加し、以降ベニサン・ピットで13年間、
芝居を創り続けました。『蜘蛛女のキス』のプロデューサや
各デザイナー&オペレーター、そして演出部のメンバーと
年間4〜5本のペースで芝居を共に作りました。

6年後の1997年にはこの時の演出家アッカーマンの通訳を初めて
務め、それを12年間続けるうちに彼の右腕となり、戯曲翻訳家及び
演出補として、二人三脚で芝居をつくるようになりました。

そして、『蜘蛛女のキス』初演から実に11年後の2002年。
新キャストによる上演をプロデューサと演出家より託され、
わたし自身が演出し『蜘蛛女のキス』をベニサン・ピットで再び
上演しました。


でも、この時はまだ、そんな未来は夢にも描いていません。
わたしはまだ21歳、ミーハーも堂に入った女子大生でした。


しかし、間違いなく『蜘蛛女のキス』から、わたしの挑戦が
始まったのでした。



芝居とのなれそめ その6


(敬称略)


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# 芝居とのなれそめ その4
芝居とのなれそめ その3


チケット資金10万円を手に「よし、これからはミュージカルだ!」と
盛り上がりながら迎えた年の暮れに、またまた出逢いがありました。

『紅白歌合戦』に出演された、市村正親さんです。
80年代も後1時間半で終わり、という土壇場にテレビに現れた
「オペラ座の怪人」に向かって、わたしは四つん這いになって
駆け寄った記憶があります。

同時に出演された『レ・ミゼラブル』代表=島田歌穂さんももちろん
本当に素晴らしくて誇らしかったですが、市村さんがNHKホールに
再現された世界にはえもいわれぬ魅力があり、ミュージカルが
『レ・ミゼラブル』だけではないことを、わたしは思い知らされました。

というわけで、明けて1990年。
この年は『レ・ミゼラブル』の東京公演がなかったこともあり、
劇団四季のミュージカルやストレートプレイを見倒すことになります。

そして東宝ミュージカル、音楽座ミュージカル。。と、チケット資金
10万円が尽きても、英会話の家庭教師などしていて潤っていたの
でしょう、観たい舞台はどんどん広範囲に派生していき、わたしは
大学に通うよりもずっとずっと熱心に劇場に通い続けました。

そんな時。ある雑誌が創刊されました。『ソワレ』という雑誌です。
それは何と、観劇をテーマにした女性誌!舞台女優がドレスアップして
表紙を飾り、舞台の人気者たちがグラビアを彩り、「今、観劇する
女性が一番おしゃれ」的な切り口のキラキラした記事が満載の雑誌!
それまでには演劇雑誌なら幾つもあったけれど、そんな切り口の雑誌は
本当に初めてで、本当に目ウロコでした。観劇好きの友人たちの間でも
センセーショナルな出来事でした。

しかも「創刊記念」と称して、「ミュージカル特派記者」というのを
募集しているではないですか!行き先は、当時ミュージカルの最先端
だったロンドン。観劇するのは『ミス・サイゴン』とあります。
当時『ミス・サイゴン』といったらロンドンで開幕して1年足らず、
日本でも上演が決まり、世界中の話題を集める最新の舞台でした。
「ミュージカル特派記者」は5人、「わたしとミュージカル」という
テーマで作文を書いて提出、とあります。

「‥‥もらった‥‥!」

「ミュージカルへの想いと作文だったら、誰にも負けない!」

何しろ1年足らず前に文章を書いていただいた10万円を使って
ミュージカルおたくになった、という流れがあるので、そりゃあもう
調子に乗ってます!絶好調です!もう怖いものナシ!大盛り上がり!

いやホントに。イキオイというのは実に恐ろしいもので。

かくして翌年、わたしはロンドンに出かけることができました。
『ソワレ』の編集さんとカメラマンさん、そして4人の仲間たちと、
1週間ものあいだ浴びるようにミュージカルを観て、観光して、
ごはんを食べたりホテルのパブに飲みに行ったり語り合ったり、
人生で2人目の最愛のアンジョルラスさまに出逢ってまたまた
恋に落ちたり(←舞台にハマるきっかけとなった『レ・ミゼラブル』に
登場する最愛の登場人物です)。

翌年開幕の日本版『ミス・サイゴン』のヒロインを努めることが決まった
今は亡き本田美奈子さんが表紙を飾った『ソワレ』の巻頭カラー特集に、
その様子は掲載されました。何よりも嬉しかったのは、メンバーを代表して
ミュージカルの感想文を書かせていただけたことでした。

生まれて初めてのロンドン旅行が雑誌に掲載されるまでの時間は、
4か月間。

実はそのたった4か月の間に、そのロンドン旅行はわたしの人生に
2つの大事件を起こしていました。

1つめは、その4か月の間に再びロンドンに行ってしまったこと。

最愛のアンジョルラスさまにもう一度、逢いたい!その一心でした。

そのために、コンビニでアルバイトをして2か月余りで20万円以上を
貯め、何とまぁ呆れることに、世界最大最強のプロデューサである
キャメロン・マッキントッシュの事務所に電話をかけたのです!
今のようにインターネットの時代ではありません。大好きになって
しまった俳優の出演スケジュールを調べるためには、国際電話を
かけるしか方法がありませんでした。『ソワレ』の伝手を辿って、
キャメロン・マッキントッシュの事務所の電話番号を教えていただき、
家の近くの公衆電話から震える手で受話器をとってダイヤルを押し、
震える声で問い合わせをしたのでした。

生まれて初めて、心の底から「英語ができて良かった」と思った
瞬間です。

かくして、無事に2度めのロンドン旅行は実現しました。
愛しのアンジョルラスさまの舞台を、3回観ることができました。
楽屋口で「日本から来た貴方のファンです」と言うと彼はとても喜び
お茶をおごってくれて、翌日にはバックステージツアーまでしてくれました。
ロンドンのパレス劇場の舞台の上から見た景色、一生忘れられません。
2回分のチケットしか買っていなかったのですが、3回めの観劇は
彼の計らいで音響オペレータの席で見せてもらえました。

生まれて2度めに、心の底から「英語ができて良かった」と思った
瞬間でした。

しかし、2度めのロンドン旅行の前に、わたしはその後のわたしの
全てを塗り替える、人生最大級の出逢いをしています。

大学3年生になっていました。

それについてはまた次に。→芝居とのなれそめ その5




薛珠麗(せつ しゅれい)
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# 芝居とのなれそめ その3
「芝居とのなれそめ その2」



「表現」をする仕事がしたい、と強く思ったのは15歳の秋、
修学旅行で出かけた広島でのことでした。

それまでも、何らかの形で世界へ発信する人間になりたい、とは
小さな頃から思っていました。

「お嫁さん」とか「お母さん」とか「お花屋さん」系の夢は
生まれてから一度も見たことがありません。

それも当然で、父と母は国際結婚、自宅は中国人が住む中華街、
15分歩いたところにある学校には色んな国籍のクラスメートたちが
集まって学び、彼らの家に遊びに行くと、そこはテレビでしか見た
ことがないような、芝生のお庭のある石造りの豪邸。
ご近所からは、インターナショナルスクールに行っているというだけで
「お嬢さま」扱いされ、学校では超セレブなクラスメートたちの生活を
見せつけられて「庶民」のコンプレックスを味わい。
ふわふわの髪に憧れてパーマをかければ、ご近所からは「不良」と
陰口を叩かれ。街を歩いていて浮かない格好をすれば、学校で浮く!

「平均的な日本人の平凡な暮らし」というものについての知識は
テレビや本や漫画からしか手に入らない子供でした。
「ランドセル」とか「給食」とか「ホームルーム」といった、テレビや
本や漫画でしかお目にかかったことのない世界に、どれだけ憧れたか。。

笑えるほど一貫性のない価値観の渦の中で、「自分の世界」を構築する
ことはわたしにとって非常に切実な【生存のための手段】だったし
それを世に問うことは自分という存在を肯定できるための唯一の
方法だったのだと思います。

常に【自分VS全世界】という構図で自分の外にある全てを
見ていたし、日本だってどんな外国とも同じくらい遠い場所だったから
逆に常に【世界】をみつめることができた気がします。

だから【世界へ発信】というのを何らかの形でする人間になりたい、
というのはずっと思っていました。

しかし、決定打は広島でした。
10年生の修学旅行です。日本でいう高校1年。
15の国や民族で成る30人のクラスで訪れた、広島。

原爆ドーム、平和公園、平和資料館、慰霊碑の数々__
どれも本当に衝撃的でした。

その日は原爆ドームの前を流れる太田川の川辺の階段に座って、
ぽかぽか陽気の中、お昼のお弁当を食べたのですが。
その同じ場所で、大勢の人々が水を求めて川に飛び込んだまま
亡くなったのだというのを直後に見学した展示で知り、言葉を失った
ことに始まり。

瓦と一緒に焼けて溶けた人骨や、熱線に焼き抜かれた浴衣。
爆心地のすぐ近くの石段に残った、人が高熱によって蒸発した脂の跡。
衝撃波によってぐにゃりと弾んだ鉄の橋、炭化した幼い子供。
白い壁に今も残る、放射能の雨の、黒くくっきりとした筋。

記録映画はもっと衝撃的でした。熱によって耳が落ち、唇が落ち、
歯が露出したままになっている子供。でも、原爆によって失われた
人々の、夥しい家族写真がただ画面に静かに並ぶ映像が、何よりも
強烈だったような気がします。

映画の後に、被爆者の女性の講演がありました。
12歳で被爆したその方は、独学で英語を学び、海外での講演なども
精力的にこなす方ということでした。

12歳の少女が、被爆者となる。
15歳のわたしがその時抱えていた幼い夢や小さなはじらいや
日々のささやかな、そして幸せを一つ一つ築いていくような営み。
その全てが、戦争によって、そして一発の爆弾の炸裂によって
踏みにじられた。その事実が、初めてリアルに実感できたのは
その被爆者の方が訴えるような声で、お母さまの嘆きと祈りを
語られた時でした。娘の顔に残ったケロイドを娘に見せたくない、と
療養中の娘の病床に、決して鏡を近づけなかったというお母さま。

その方は回復後、かつては鬼だのけだものだのと呼んでいた元の
敵国の言葉を必死で学び、被爆体験の語り部となり、活動を続けて
こられたのでした。何十年を経ようと思い出すたびに夜には必ず
見るという、あの日の悪夢に苦しみながら。

その語り部を、世界中の国の子供たちが一つの部屋に集まって、
聞けるという奇跡。
戦争が終わってから、また50年も経っていませんでした。

それは実に不思議な感覚でした。
資料館の展示や記録映画を見ていた時には凄惨さばかりを
感じていたのに、その講演を聴いているうちに、自分がどんどん、
光に包まれていくような気がしたのです。

想像などとても追いつかないほどの苦しみの中で亡くなって
いった人たちが、天からこの世に向かって注いでいるのは、
怒りでも恨みでも、憎しみでもない。
光のように澄みきった、そして大きな、祈りなのだ。
その大きさ、気高さに心動かされて洗われて、わたしは涙が
後から後から流れて、止まりませんでした。

平和だからこそ生まれ得た一粒の真珠のような特殊な環境で
生まれ、育った自分。
そんなわたしにしかできないやり方で、彼らの祈りを、命を、
つないでいきたい。

15歳の秋のその決心が、4年後の夏に『レ・ミゼラブル』で
受けとめた感動と響き合ったわけです。

19歳の夏から秋にかけて、広島での決心をエッセイにまとめて、
ある雑誌の賞(といっても、某ファッション誌が開催していた
「愛のノンフィクション賞」という賞でしたが)に応募したら、
何と!佳作に選んでいただきました。賞金は10万円。

『レ・ミゼラブル』の代表曲を鼻歌で歌いながら、また
原稿用紙の欄外に『レ・ミゼラブル』の英語歌詞を落書きしながら、
書いた原稿でした。

これをちゃっかり「神さまからのGO!サイン」と決めつけて、
10万円の全額を、ミュージカルのチケット代に注ぎ込みました。

大学2年生の時のことです。

芝居とのなれそめ その4



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# 芝居とのなれそめ その2
芝居とのなれそめ その1



芝居との、劇場との、演劇との、本当の出逢い。

それは、1988年7月14日、帝国劇場でのことでした。

世界中の演劇界にこういう人、掃いて捨てるほどいると思います。
そう。作品は『レ・ミゼラブル』。

とにかく、初めての『レ・ミゼラブル』の記憶といったら
「アンジョルラスがかっこいい!」しかありませんでした。
いわずと知れた、革命学生のリーダーです。
1幕ラスト『One Day More!』で幕が降りるやいなや、
膝の上に載せてあったプログラムを手に取り
「あの人は誰っ???」とうわ言のように繰り返しながら
キャスト紹介ページをダァーーーッとめくったのを思い出します。
その日のアンジョルラスは内田直哉さんという方でした。

革命の旗よりも、襟に結んだタイよりも、戦いに赴くために
身につけた軍服のようなジレよりも赤く、深紅に燃え盛る情熱を
追い続ける、孤高の指導者。時に冷徹にすら思える厳しさも、
理想に殉ずるその覚悟ゆえ___

わたしの演劇人生は、一人の人物に恋をすることで始まったのです。

翌年、ほとんど同じキャストでの再演には、母親を連れて
行きました。歌が大好きな母に、このミュージカルに溢れる
豊かな歌声を聴いてほしくて。
そして、アンジョルラスにまた会いたくて。

そこで、決定的な出逢いをすることになります。
1989年7月14日のことです。
奇しくも2年連続の、フランス革命記念日の観劇でした。

観劇するにあたり、非常に強く意識する事件が現実で起きた
ばかりでした。

1989年6月4日、天安門事件。
胡耀邦氏の死をきっかけに起きた、民主化を求める学生たちの
デモは、無差別発砲などの武力弾圧を受け、多くの罪もない
市民たちが命を落としました。
民衆の味方であったラマルク将軍の死から始まるこの作品での
学生たちの蜂起と、そのきっかけからして、そっくり。
そして、武力で弾圧されたところまで同じです。
天安門事件に関心があったわたしは、鎮魂の想いも込めて
舞台に向き合いました。

この日の舞台は、前年を上回る、本当に気迫の舞台でした。
観ているわたしの中にも天安門への強い想いがあったけれど、
舞台の上で演じている人もまた、天安門へ想いを抱いて演じている
ということが、ひしひしと伝わってくる舞台でした。

これは衝撃でした。

同じ時代、同じ時間、同じ瞬間を、劇場に集まった全員が
共有できる。
それまで色んなものに感情移入してきたけれど、【生の舞台】と
いうのは、演じている側にいる人の感情移入もそこに加わって、
気持ちがお互いに増幅し合って、何倍にも膨らむのか‥‥!

のちに、『レ・ミゼラブル』の原歌詞を調べた時に、その想いは
ますます強くなりました。

バリケードで最期の戦いに臨む時、アンジョルラスが叫ぶ最期の台詞。

日本語では

「立つのだ仲間よ 自由を世界に!」
(歌詞は当時。いつの頃からか「世界に自由を」に変更されたようです)

となっていますが。原文はこうです。

「Let others rise to take our place until the Earth is free!」

これをわたしが訳すとこうなります。

「のちの世の人々よ 我々が倒れても 後に続いて立ち上がれ
 世界が自由になる その日まで!」

天安門で多くの命と共に潰えた想いが、1本のミュージカルを通して
後の世へと引き継ぐことができる!いのち半ば、祈り半ばで
亡くなっていった人々のいのちを、祈りを。つなぐことができる。


その時わたしは4年前に修学旅行で訪れた広島を思い出していました。


それについてはまた次に。→ミュージカルとのなれそめ その3



薛 珠麗(せつ しゅれい)
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# 芝居とのなれそめ その1
わたしの場合、親が何かをやっていたとかお芝居好きとか
そういうことは全くありませんでした。

ただし学校でたまにやる【劇】は嫌いではなかった気がします。

わたしの場合幼稚園から大学まで全てインターナショナルスクール
だったわけですが、こういう学校では東洋人って「地味」な存在です。
さすがにあからさまな人種差別はありませんが、派閥や偏見はあり
東洋人というだけで「地味」「真面目」と思われたり扱われるのが
常でした。わたしもご多分に漏れず、地味で目立たない子でした。
なので今でも不思議なのですが、小さな頃には3回も【劇】の
主役をやらせてもらえました。本当に今でも不思議です。

幼稚園の時。
泣き虫のライオン役。舞台の真ん中でずっと泣いてるだけの主役。
色んな動物が泣いている理由を聞きに来てくれるけどライオンは
泣き止まない。クライマックスで判明するその理由とは、
「尻尾がどこかにいっちゃった」というもの。
しかも消えた理由が「自分がその上に座っているから」という
シュールなもの。「泣き止んで、立ち上がれ」っていう物語でした。
わたしは真ん中で泣く芝居をしながら、動物役の級友たちが
正面を向いて台詞を言うのを見て「わたしはこっちなんですけど」
って冷静につっこんでました。心の中で。

小学校2年の時。
「シンデレラ」のパロディ劇の主役。だからシンデレラなんだけど
何しろパロディだから、最後は王子さまと再会を果たすも
「性格が合わない」「住む世界が違う」という結論になり、
シンデレラは自活できるだけの援助を王子さまからもらい、
自立して生きていく。王子さまはいいお友達。。という、これも
ひどくシュールなもの。
東洋人で、しかも男の子みたいに髪が短かったわたしが、何故
姫ポジションな役をもらえたのか。。今もって不思議。
(思うに、キャスティング発表の日はわたしの誕生日でした。
ひょっとしてそのせい???)

小学校6年の時。
別段いいお父さんでもないのに「街一番のいいお父さん」という賞で
表彰されてしまい色々と無理をする主人公のドタバタを描いたお話で、
わたしはその夫を支えフォローする妻で、3人のわがまま娘を持つ母親、
という役。これも、小学生がやる内容とは思えないエグいストーリー!
しかし非常にいい役で、夫役の級友(当然彼も小6なわけですが)を
献身的に支え、慈しんだ記憶が(笑)

それ以降は、さすがに華やかになっていく白人のクラスメートたちに
押されたのか、目立った役はもらえませんでした。【劇】をやる
機会も小学校の時より減りましたし。

しかし、わたしが高校2年生の年に、大きな催しがありました。
フルオーケストラを入れての『ウェストサイド・ストーリー』!
何しろインターナショナルスクールですから、人種間の対立を
描いたこのミュージカルは、まさにうってつけの演目でした。
ジェット団は白人、シャーク団はそれ以外の人種がやる、という
日本ではなかなか見られない、結構リアルなキャスト。。と思いきや!
ソプラノがいなくて、マリア役が何と、ノルウェー人になって
しまいました。兄のベルナルドは黒人、その恋人アニータは韓国人、
それなのに妹のマリアは真っ白い肌にきんきらきんの金髪。。。
トニーも偶然デンマーク人で、「人種を超えた恋人たち」のはずが
見た感じしっくりのベストカップルにしか見えない!どうなのソレ!

‥‥ってことで、「珠麗やんないの?」と色んな人が探りを入れて
きました。わたし、高校時代はちょっとバンドのヴォーカルとかやってて
歌が得意な子だったんです。

この時、なぜか何の根拠もなくこう言ったのをよく覚えています。
「わたし、ミュージカルは出るんじゃなくて作りたいから」

いま考えると、びっくりです。
まず、なんてイヤな高校生だろうか。。と、びっくり!
そして、芝居なんて観たこともないのに、どうしてそんなこと
言ったのだろうと。本当にびっくり。

どこからともなく出てきたこの言葉。
一体どうしてこんなこと言ったんだろう、と。

それまでミュージカルにふれたのはたった1回だけでした。

11歳の夏のことです。

その夏、『ピーターパン』日本初演が大変な話題になっていました。
わたしはいたいけな小学生。
ハハが重病に倒れ、生死の境をさまよった末にどうにか生き延びた夏。
元気のない娘を元気づけようと、回りの大人が、その夏の大きな話題だった
『ピーターパン』に連れて行ってくれようとしたわけです。
が、そこは超話題作のこと、チケットが取れない!
そしてその夏、帝国劇場でも、やはりミュージカルが上演されていました。
「ミュージカルだったら同じようなものだろう」という判断の元、わたしは
『ピーターパン』の代わりに『スウィーニー・トッド』に連れて行かれた、
というわけです。

そう。のちにティム・バートンがジョニー・デップ主演で映画化したアレ。

想像してください。

血しぶき、復讐、人肉パイ。
ロリコン、変態、気違い病院です。
同じロンドンが舞台でも、これほどかけ離れている世界も珍しい。

しかし、その残虐と闇を「面白い」と思い、あまつさえ
「お腹すいちゃった」とまで 言ってのけたところに、
わたしののちの人生が透けて見える気がします(笑)

‥‥と、小学生の時にそんな衝撃的な出逢いをしたミュージカルでしたが、
その体験はわたしに大きな影響を与えることはありませんでした。

じゃあなぜ、観たこともないミュージカルを「作りたい」だなんて
言ったのか。

それは多分、翌年に待ち受けていた運命の出逢いの予感だったのでは
ないか、とわたしは思っています。

それについてはまた次に。→芝居とのなれそめ その2



薛 珠麗(せつ しゅれい)
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