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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 『若冲展』攻略メモ
わたしの『若冲展』は終わったので、3回行った者からの攻略メモを。

4月27日に行った時は15時前に着いて入場までが45分待ち。
5月10日には午前8時過ぎに並んで約300人め、9時25分には入室。
本日5月13日にもやはり8時に並んで約700人め(わたしの感覚です)、
9時半に入室。

(もちろんチケットは言うまでもなく事前入手です。チケットを買うために
何十分も並ぶのは致命的な時間のロスです!)

700人めでも、まず最初にエレベータで2階のプライス・コレクションに直行すれば、
『紫陽花双鶏図』が独り占めでした。1階の『動植綵絵』も、この時間に直行すれば
ゆったり見られました。

いずれにせよ10時半を過ぎると展示室内、グッズ売り場共に満員電車なので、
何としても最初の1時間で回ることをお勧めします。

今回は伊藤若冲の展覧会にしては非常に珍しく【個人蔵】が殆どありません。
(或いは今まで個人蔵だったものが岡◯美術館に買い占められちゃったか!
あり得なくない‥‥)ので、どういうことかというと、所蔵先別に鑑賞の作戦を
立てられるということです。

展示室は地下1階、地上1階、2階の3フロアに分かれています。
真ん中の1階が全部『動植綵絵』、2階の一番奥がプライス・コレクション。
他の部分はバラの作品が並べられています。

地下1階に集められている京都・細見美術館の所蔵品は基本的に年に1回以上、
大体全部を一気に見せてくれるので、それほどレアものではないです。

同じく地下1階に多くある京都・鹿苑寺のものも、やっぱり大体年に1回は
京都の相国寺にある承天閣美術館で一気に見せてくれます。ここは常設展示で
若冲の壁画が一部屋丸ごと見られるので、京都に行きさえすれば、美術館が
開いてさえいれば、若冲はんに必ず会えます。

今回、岡田美術館という新興の美術館の出展が多いです。ほとんどが地下1階。
神奈川県民でも行くのに1日仕事な、箱根の山の上の美術館ですが、ここは
今年後半に若冲の展覧会をやるとのことなので、温泉ついでに行けるようなら
今回必死になって見る必要はないでしょう。ちなみに個人的にお勧めは2階にある
『三十六歌仙図屏風』です。新発見、と騒がれた『孔雀鳳凰図』よりも。

MIHO MUSEUM は滋賀の物凄い場所にあります。【野越え山越え】状態なので、
ここのものは重点的に見ておきましょう。地下1階にも2点ありますが、
2階の『象と鯨図屏風』を必ずしっかり見ましょう。これは割と最近東京に
来たばかりなので、次はなかなか来ないかと。

京都国立博物館のものはどれくらいの頻度で展示されるかわたしは把握して
いないのですが、かなりの大規模展覧会でないと関東には来ないので、京都まで
行く機会の少ない人はしっかり見ておくといいと思います。2階の『果蔬涅槃図』、
水墨の代表作の一つですし。あ、地下1階の『乗興舟』は物凄く長いこともあって
ケースに寝かせて展示してあるのはかなりレアなので、ケースの前は混んでますが、
是非とも目に焼き付けましょう。

鹿苑寺以外のお寺の所蔵のものは全てレアです!重要文化財である『仙人掌群鶏図』は
年に1回の虫干しの日のみの公開だし、石峰寺の『虎図』は若冲忌の時に見られる
程度だったかと。地下1階、2階に散らばっています。

レアといえば、大抵の人にとっては佐野市立吉澤記念美術館蔵の『菜蟲譜』を全部
一気にケースで展示!は激レアです。若冲ファンであればあるほど、このありがたみは
わかるはず。舐めるように見てください、ファンからのお願いです。

1階の宮内庁所蔵の『動植綵絵』と2階のプライス・コレクションは次にいつ見られるか
わからないありがたいありがたいものなので、心して、そして覚悟して見てください。
プライス・コレクションは普段はカリフォルニアのプライスさんという大富豪が
おうちにしまい込んだり、地元の美術館に貸し出したりしています。
『動植綵絵』は普段は宮内庁の三の丸尚蔵館にしまい込まれています。

グッズ売り場は2階です。4月27日の16時半の時点でお会計1時間待ちでした。
10時半までに見終えてからグッズ売り場を回り、レジに並ぶ‥‥というのがオススメです。

取り急ぎ、珠麗でした。
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# 礒沼祥子さん『dan dan』展



生まれて初めて、モデルになった人物が(2人を除いて)
全員知り合い!という個展にお邪魔した。
礒沼祥子さん。舞台美術家で、わたしの一番古い演劇仲間である
礒沼陽子ちゃんのお母さまだ。

わたしの古巣=tptを中心とした演劇界と、そして礒沼家の
皆さんが、精緻で優しい風合いの創作人形で再現されている。
わたしの2人の演出家の師匠も、朝倉摂先生も、ボスも、
tpt旗揚げ当時の皆さんと共に、勢揃いして微笑んでいる。
その真ん中に陽子ちゃん。

tptが初年度に開催した初めてのワークショップの時の
皆さんの姿を再現されたそうで、まさしくそのワークショップに
参加したわたしはそこから演劇界に足を踏み入れたし、その時の
写真も手元にある。翌年にはわたしもtptに参加した。
そしてこの時にわたしは陽子ちゃんに声をかけて、友達になった
のだ。陽子ちゃんはわたしにとって最初の、演劇仲間である。

わたしの人形はないけれど、同じ世界に、確かにいたんだなぁ。

もう、それぞれの人形が着ている服まで覚えている!
ボスが着ている『蜘蛛女のキス』のTシャツや、朝倉先生が
着ているTPT(当時)Tシャツなどは、わたしも今も持っている。

陽子ちゃんが作業着代わりに着ていたブラウスにも、人形さんで
再会できた。本当に、懐かしい。
会場にいらしたお姉さまによれば「本気の時の」服装だったとのこと。
陽子ちゃんはいつも本気だった。真剣だった。
稽古場でいつもこのブラウスだったのは、そういうわけだったのか。

礒沼さんにお話を伺うと、皆さん時間差で足を運んでいる
とのことだ。いつもカンパニーの真ん中にいた陽子ちゃんは、
今もみんなを結びつけている。

7点ほどだろうか。礒沼陽子ちゃんが手がけた舞台の写真も
展示されているし、きりん画家という一面も持っていた
陽子ちゃんの巨大なきりん絵も展示されている。

‥‥今よりちょっぴり若いデヴィッド・ルヴォーもいます。笑

銀座幸伸ギャラリーにて31日まで。是非。

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# 映画『タイタニック』3D (拍手コメントお返事を追記)
タイタニック沈没から100年ということで、twitter実況を追いかけたりして
いたが、「せっかくだから、やっぱり」と、3Dになって復活した映画
『タイタニック』を見て来た。

Twitter の方でちまちまと感想をアップしていたが、「絶対に書こう」と思っていた
ことを書き忘れていたことが発覚したので、ブログの方に感想をまとめがてら
書き留めようと思う。

以下、twitter の呟きの再録に若干の編集/加筆を施したもの。

*****

15年前の公開当時も映画館で3回だか4回だか見た映画だが、懐かしくもあり、
新鮮でもあり、また自分自身の変化も感じたり。

一番「変化」を感じたのが、沈没が間近に迫る中、タイタニック号の設計士
トーマス・アンドリュースが普段と変わらない一等の大階段の景色を呆然と
見回す場面だった。

いつ起こるか知れない大地震の巣の上で、どういう影響を起こすか知れない
放射能を浴びながら、普段と同じ経済活動を続ける日本の姿に重なる。

15年前には決して、決して、持ち得なかった感想だ。

自分の変化を一番感じたのが、T型フォードで二人が愛し合う場面だ。
「Are you nervous?」と聞くジャック。処女だと思ってたのか、と
今回はふと、よぎった。確か以前には思わなかったことだ。
ローズが処女でないのは、婚約者キャルが朝食の席で問いつめる
「昨夜は来てくれると思ってたのに」でわかる。

愛し合う二人の様子に、昔は「ずいぶん男をリードするのがうまい17歳も
いたものだなぁ」と思って見ていただけだったが、いま見ると、その前後の
2人の無言のやりとりと微かな表情に、当時の上流の娘の運命と、それを
察して悟るジャックの心の機微が見えて、何ともせつなくなった。
彼はあそこで色んな成長をしたんだろうなぁ。。と思いをはせる。
「ローズがジャックに愛を教わった」という印象をずっと持っていたが、
逆もまた真なりであると、いま見るとよくわかる。

ジャックの対比となるキャルの人物造形に関しても、昔はただの悪役としか
思わなかったが、「真摯さ」「傲慢」「幼稚」「世慣れ」それぞれの対比と
揺れ動きが、実はかなり面白い人物なのだと感じた。

昔も今も、ローズがその後歩んだ長い人生の豊かさに、とにかく心が熱くなった。
ジャックと交した無邪気な約束を守って、海辺のジェットコースターにも、馬にも、
ローズはちゃんと乗ったのだ。もちろん、馬をちゃんと跨いで。ローズはどんな
女優になったのだろう、きっといい女優だったのだろう、と想像する。ケイト・
ウィンスレットのように、嘘のつけない女優。そして、どんな人と結婚し子供を
設けたのだろう。100歳にして陶芸を嗜み、真っ赤なペディキュアを完璧に
施すほどに、豊かな人生を生きた女性。

15年前よりもずっと「ジャックの生きる才能」に感動した。沈み行く船の船尾に
しがみつきながらあれだけ対策を考えつける人って凄いよなぁ、と呆れるほどだ。

そして沈没後、ひとりになったローズが救助される直前「生きる」と決めた瞬間の
燃え上がる緑の瞳に、何だか理屈抜きにぞくぞくするものを感じた。

そうか、この2人は互いの生命力に共鳴し合ったのか、と。

パニックのなか演奏を続ける楽団や、抱き合って死を待つ老夫婦、逃げ惑う廊下で
辞書を広げる移民一家に昔は一番胸を掴まれたが、今回は船長のあり得ないほど
呆然とした様子に胸が詰まった。「しっかりして!頼むよ!」とも思えない。
何というか。あの絶望ってもう。何ていうか。ううう。

今回一番響いた台詞は沈没の直前の設計士トーマス・アンドリューズの台詞だ。

「I'm sorry that I didn't build you a stronger ship, young Rose」

字幕だと「もっと頑丈な船を造っていれば」ってなってしまうのが残念だ。
もっとずっと衝動的な謝罪の言葉ではないか、と思うからだ。

「ああこんな若い娘の命を自分の船は奪ってしまうのか」という独り言が、
思いがけぬ、しかし心からの相手への謝罪の言葉となって漏れ出した‥‥そんな
感じの言葉のように、わたしには思える。

「I'm sorry」は色々と訳せる言葉で、日本語で云うところ「残念」「遺憾」などの
表明にも使うが、ここで彼が伝えているのは、「本当にごめん」の気持ちではないか
と思う。それでいて、半ば独り言のような。

懐中時計で時間を確認して、タイタニック号の一等喫煙室の置き時計の時間を直す
彼の心中、如何ばかりか。

ジャックの名台詞「To making each day count!」の字幕が「今を大切に!」に
なっていたのもわたしは残念だ。これを日本語にするのは実に至難の業だが、
これではどうにももったいない。

「1日1日を人生に響かせる、そんな生き方に乾杯!」くらいの意味が込められた
言葉のように思う。

「1日1日を人生に刻みつけろ」と。

15年前には「こんな人がこんなふうにして死んだというのに、それを知る人も
惜しむ人もいないなんて‥‥」と天涯孤独のジャックの身の上を想った。
それが一番強く大きな感想だった記憶がある。

しかし、ああして生き、愛し、そして死んだ恋人の記憶を独り占めにすることで、
ローズは生きるよすがとし、そして2人で生きたのだ。他の誰かと結婚して
時間的にはどんどん遠ざかっていっても、ローズはジャックと生きたのだ。
15年前にはわからなかったが、今ならわかる。

そうなのだ。老いたローズが大西洋上で85年前の記憶を再び生きるのと同じように
15年前に見た映画を再び見るというのは、観客にとっても、15年前の記憶を
再び生きる体験になるのである。

それを体感したのは、15年前には「生きて彼との約束を果たすためとはいえ、
ローズはよくジャックの亡骸から手を放せるな‥‥」としか思わなかった場面に
新しい発見をした時だった。

ここでのジャックの台詞。

「You’re going to get out of this...you’re going to go on and you’re going to
make babies and watch them grow and you’re going to die an old lady,
warm in your bed. Not here...Not this night. Do you understand me?」
「君は絶対に生きのびる‥‥君は生きる、生きて子供をたくさん生んで、
子供たちの成長を見届けて、おばあさんになって、あたたかなベッドで君は死ぬ。
ここで死んだりしない‥‥こんなふうには。いいね」

「You must do me this honor...promise me you will survive....that you will
never give up...no matter what happens...no matter how hopeless...
promise me now, and never let go of that promise.」
「僕のために約束して‥‥生きのびると約束して‥‥絶対に諦めないと‥‥
どんなことがあっても‥‥どんなに希望がないように見えても‥‥今ここで
約束して、そしてその約束を守り続けて」

この最後の「never let go」の言葉を、2人は互いに交し合う。

互いに、手を強く握り合いながら。

字幕には「諦めない」とだけあるが、この「never let go」には色々な意味がある。

直訳すると「決して手を放さない」。
「しがみついて放さない」とか、対象によって色々なニュアンスを持ちうる言葉だが
ここでは「【望み】【約束】を【決して放棄するな】」とジャックは言いたいのだろう。

しかし、その言葉を繰り返すローズの方では、きっと「あなたのこの手を、
絶対に放さない」という意味で口にしているんじゃないか、とふと
思った。

だって、それはとても自然なことだろうと思うのだ。

凍てつく深夜の海の上。
周りには船の残骸と、夥しい死体ばかりが浮かんでいて、助けが来るか
どうかも定かではない。

全てを捨ててこの人と、とまで思った愛しい人の手の、消えそうに微かな
ぬくもりだけが、ローズの世界の全てなのだから。

「I promise. I will never let go, Jack. I'll never let go」

果たして助けがやってくるが、時はすでに遅く、ジャックはローズの手を
握りしめたまま、氷の海で絶命していた。

ジャックの手を何度も何度も握って揺すって、ジャックの名前を何度も呼んで、
そしてローズは、その手を放す。
「I'll never let go」と何度も言いながら、その手を放す。

それまで
「この手を握りしめて、絶対に放さない」
と言っていたその同じ言葉が、ここから
「この約束を、希望を、命を。絶対に、守り続ける。生き続ける」
という誓いの言葉になる。この瞬間から、恐らくは85年間ずっと、
彼女のよすがとなる誓い。

愛し合ったその瞬間と同じ、委ねきった表情で氷の海へと沈みゆく
彼の顔を見送り、ローズは猛然と生き始めるのだ。猛然と。

15年前は「もう死んでいるからどうしようもないとは言え、よくあの手を
放せるよなぁ」と思って見ていたものだったが、そうじゃないのだ。

あの手を永遠に放さないでいるために、あの時ローズは、手を放すのだ。

15年前にはわからなかったことだ。

『タイタニック』に再会できたおかげで、15年前の自分と、15年後の
今の自分。両方と出逢うことができた気がしている。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)




追伸:
以下に、拍手にいただきましたコメントへのお返事を追記します。

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# ミュージカル『MITSUKO』テレビ中継
わたしが地味ィ〜に関わっておりましたミュージカル『MITSUKO』の
テレビ中継があります。
(BSでごめんなさい。。)
ご覧いただいた皆さまも、「見逃してしまった!」という皆さまも、
(BSが見られる環境にある方はどうかどなたさまも、
全編メインのフルコースのボリュームと、
泣かずにいられない壮大な物語を、
ご堪能くださいませ!

8月6日(土)
NHK BSプレミアム
「プレミアムシアター」
23時30分〜02:50(予定)


薛 珠麗(せつ しゅれい)Shurei Sit
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# ヴァーチャル若冲ツアーに出かけましょう(編集中)
お正月、上野の国立博物館に初詣でに出かけたら、何と最愛の絵師
伊藤若冲の屏風絵が!!!!!

近年、何故だか都内ではなかなか、若冲の墨絵は見る機会がないのです。
京都、相国寺境内の承天閣美術館では展覧会期間中なら障壁画が
常設で見られますが、関東で常設展示はありません。展覧会も、
一番近くて千葉や宇都宮。一番たくさん見られたのは何と、滋賀県。

しかも、何とこの展示、「撮影可」というありがたさ。

ヨーロッパでも最近は「撮影可」が減りつつあると言うのに。。
日本ではなかなかないことです。ありがとうトーハク‥‥!!!

というわけで翌日、デジカメ片手に再び出かけたのでした。

その時の写真を元に、ヴァーチャル若冲ツアー、開催しようと思います。

とかく、緻密に濃密に描き込まれた彩色画が注目されがちな若冲。

わたしだって『動植綵絵』が大好きで大好きで、2009年の
『皇室の名宝』展の際の一斉展示の時は、確か6回ほど見に行ってしまった
のでした。
それ以前に、2007年に全30幅が120年ぶりに京都・相国寺へ
里帰りした際にも駆けつけて、雨の中数十分も並んで見たものです。
2日間にわたって。

それでも、あえて言いたい!

若冲の墨絵は、あの「超絶技巧」と称される彩色画にも、全く、一歩も、
引けを取らない!彩色画とはガラリと違うアプローチで、でも
やっぱりこの上なく若冲らしい世界が、そこには展開されているのです。
墨絵を見ないうちは、若冲を半分しか知らないことになる‥‥とさえ
断言していいと、わたしは思う!

先ほども書いたように、都内ではここ数年、なかなか見る機会が
なかった若冲の墨絵。この日撮影することのできた写真を使って、
見る機会のなかなかない友人たちとまるで一緒に絵を見て楽しむような、
そんな試みをしてみたいと思いました。
わたしは美術の専門知識は皆無だし技術的なことなんて一つもわかりませんが
アートと出逢う時いつもしているように、物語やメッセージを読み取り、
作者と語らう。。そんな気持ちで、若冲さんのこの墨絵とも、向き合ってみます。

若冲の墨絵の真髄が伝わるかどうかはわからないけれど、大好きでたまらない
若冲のユーモアと達観の面白さ痛快さを、一緒に感じてもらえたら。。


(画像はクリックで拡大します)

まずは、何故かカメラに収めてしまったロダンの『地獄の門』。
(これは静岡にあるものの方がずっと見応えがあるけれど)
この彫刻の阿鼻叫喚の狂気が、すっごく好きです。
駅から歩く途中にあります。大好きだから、ちょっと寄り道。



ちなみに、夜になるとこんな景色になります。
(この姿は室内で展示している静岡では見られない!)



そしてこちらが国立博物館の、外観。

ここの左奥の棟である「平成館」でわたしは若冲と出逢いました。
2006年夏、若冲を世に広く知らしめ、スーパースターへと押上げた
『若冲と江戸絵画』展は国立博物館平成館で行われたのです。
以後、『動植綵絵』全点展示の『皇室の名宝』展なども平成館で。
ちなみに、興福寺の「阿修羅」に逢えたのも平成館でした。
大切な思い出たくさんの美術館。
しかしこの日若冲さんがいたのは、珍しく中央の本館です。
(先日、映画『GANTZ』の中のアクションシーンの中でこの建物が
がっしゃんがっしゃん壊されているのを見た時は心が痛みました。。)




2階の一室の片隅に、若冲さんは静かに飾られていました。
ちなみに隣には尾形光琳の『風神雷神』が。





若冲の絵を見る時はとにかく混雑してぎゅうぎゅう、というイメージが
ありますが、あまり知られていない展示だったのと、隣の『風神雷神』が
目立っていたこともあり、時おり人の流れが途切れることもある中で
じっくりと向き合うことができました。

こちらは、説明書き。
題名は『松梅群鶏図屏風』です。小林忠執筆の『伊藤若冲』
(新潮日本美術文庫)によれば、1990年代半ば、つまり比較的
最近になって発見されたものとか。



残念ながら、いつ描かれた作品かが書いてありません。

年代のヒントとなるのは、点描の画法で描かれた灯籠でしょうか。
同じ手法で同じく灯籠が描かれた有名な『石灯籠図屏風』も
年代がはっきりと特定されていない作品ですが、佐藤康宏著
『もっと知りたい伊藤若冲』(東京美術)などによれば1789年から
最晩年にかけて、とのことですから、やはりこの作品もその頃
でしょうか。ただし、最晩年の墨絵の伸びやかさに比べると、
残念ながらこの絵は少し精彩を欠く気がします。大火事で焼け出され
大病をした1788年から1789年にかけて若冲は『仙人掌
群鶏図』などの大作も手掛けてはいますが、わたしの個人的な
感覚で言うと、どうも伸びやかさに欠けるのです。「のびのびして
いないなぁ」と思った絵はこの時期の作品であることが多いのです。
西福寺の『仙人掌群鶏図』は若冲では数少ない重要文化財ですが、
若冲得意であるはずのにわとりたちが、他の絵と比べるとどうにも
「剥製」のようだとすら思います。
(しかしそれ以後、1790年代には再びどんどん自由で弾むような
絵を描いていますから、当時の平均寿命を考えれば、まるで
仙人のような驚異的な体力です!)
ですから、わたしは素人ながら、この絵は1788年か翌年辺りに
描かれたものなんじゃないか、と勝手に推測しています。

六曲一双の屏風(6つに折れた屏風が2つで対になっていること)のうち
まずは右隻。



タイトルは「松」と「梅」とありますが、右隻の一番右の右上に描かれている
のは松にしてはずいぶんとエキゾチックな枝と、右下の茂みらしきもの。



若冲の松というとはっきりとしたパターンがあって、大きく分けると
松の枝に関してはうねうねと龍のうろこのように描き込んだものと
筆の跡をあえて活かしたもの、松葉に関しては一本一本開いて
花びらのように咲いているパターンと、やはり筆の跡を豪快に活かした
ものとがあるように思うのですが、この絵では右上は描き込まず筆跡を
活かした枝や松葉が描かれています。

謎なのは右下に描かれた茂み。花びら様の松葉にちょっと似ていますが、
まるで松葉の針の一本一本から生気が迸るような若冲の松葉の描き方とは
似ても似つかぬ、ちょっとどんよりというか、もっさりしています。
屏風の折り目を這い上がってくるようなこの茂み、松といわれれば松
だけど、ちょっと謎な絵です。。。

こちらは一番右の絵の左下に描かれたまん丸いにわとりさんたち。



ぽこぽこ、むくむくにまん丸くて雪だるまみたいなのに、よーく見ると
右の人は羽根の模様/質感を墨の使い方だけで描き分けていて凄い!
実に巧み。

よく見ると、早くもこの絵の特徴が。
墨絵なのに、少しだけ赤を入れているのです。トサカとくちばしの横の
口ひげみたいなところが、ポッとそこだけ赤いです。そして丸い(笑)
墨ひとつで彩色画のようにカラフルに描き分けられる若冲ですが、
墨絵に実際に別の色を使っている作品は唯一ではありませんが、珍しいです。

相変わらず、にわとりさんの目の「きょろん」とした表情が絶妙!
何とも可愛らしい、とぼけた味わい。
華麗な若冲さんも好きだけど、この憎めない感じが本当に好きです。

右のにわとりさんが「ぽ?」と見上げる先は



灯籠の上に、片足で立つ、おんどりさん。んなアホな。。
若冲さんお得意の、尾羽がSの字を描いてポーズをとるおんどりさん
なのですが、灯籠のずんぐりとした牧歌的なざらざら感と相まって、何だか
ちょっとだけダサくて可愛い。



Sの字尾羽にもいつものキレがありません。
しかし、細かい毛羽を描いた筆使いの空気のような軽やかさ、
同じ弧を描く丸い線の繰り返しでまとめたリズム感、にわとりの表情の
ぴたっとした集中。。その辺りはやっぱり流石。

少しだけタッチに点描のニュアンスも入れて、灯籠とバランスを取っている
ようにも思えて。この辺りのセンスのよさも、流石です。

灯籠の上のにわとりさんの目線の先には、このお二人。



灯籠の上でバランスを取る仲間を見て、「!」と仰天顔のおんどりさん。

グエッ!


おんどりさんの驚きっぷりに「?」と驚いている、めんどりさん。
コケ?


これです、このやりとりが若冲の面白さ。表情がとっても人間的で、
それでいて、動物の間(ま)の面白さも的確に捉えていて。

右隻の主役とも言えるおんどりさんは、それこそ『動植綵絵』でも
見られるような、身体をねじり上げて見得を切るポーズを取っているの
ですが、この絵においてはどうも。。ゆるーいです。



胸の辺りのモリモリや手羽の流れの美しさなどは流石なのですが、
首の毛羽や尾羽のSの字に若干、硬さが見られます。目の表情も、若冲
お得意の「瞬間を切り取ったっ!」というシャープな切れが感じられず。

しかし、動物特有の、一瞬の緊張に身体を強ばらせてピタッと
止まるあの感じ、本当によく切り取られています。このユーモアを
醸し出せるのは若冲さんだけだとわたしは思っています。

そして、めんどりさんが毎度の通り



実に可愛らしい!目の表情も、こちらは愛らしい。
「お尻をこっちに向けて(しかもしっぽを上げて!)ちょっとびっくり顔の
めんどり」を若冲さんはたくさん描いています。
何を伝えようとしているのかなぁ。可愛いなぁ。

その隣は、右隻の一番左の絵になります。



この屏風、中央から描いていった、ってことないんでしょうか?
どうも、端にいくに従って調子が出てきている気が。。特に左。

こちらのカップルなんて。。



センターにいるカップルより、ずいぶん筆が乗っている気がするのです。

見得を切ってるおんどりさんを見上げて地味に「クェ?」って
驚いてる小さなめんどりさんも、その隣で何故か真っ正面顔で「きょろん」
としてるおんどりさんも。。足や羽根のタッチの尖端まで、何だか
顔と同じ表情と呼吸で描けているっていうか。。

にわとりの身体と間(ま)が完全に一致している、っていうか。

すると、墨一色が何故かグンとカラフルに見えるから不思議。
(実際に赤も少し混ぜ込んでいるっぽいけど、でもほんの僅かですよね)

それにしても若冲のめんどりってちょっとヒガミっぽいというか
ちょっとだけブラックな空気を出しているところがキュート(笑)
ブラックにわとり。どんなやねん。

そしてこちらが、右隻の左端。



何て可愛いんだー!

「ホ?」って表情が三人三様!同じリアクションをしているキャラの
違う3人の一瞬を捉えていて、そして3人がそれぞれ実にとぼけたいい味を
出していて、もう最高に可愛い。そして最高に若冲。
余白が多いながらも、少しの描き込みで生き生きと描けてる!
尾羽も、断然、右にいる人たちよりも生きてます。

‥‥でも。。白を入れてみたのはやっぱり蛇足だった気がします。
あはは、言っちゃった。。

右隻最後は、右端の松の枝と地面の間の空間の中に捺された落款印。
若冲にかかれば、落款印も絵の大切な要素です。



いつも通り。。曲がってます。明らかに曲がってます。
あんなに精緻な絵が描けるのに。。どうして落款印はほぼ必ず、
曲がってるんでしょう。‥‥若冲さん、わざと?ねぇわざと???

2010年に千葉と静岡で開催された『伊藤若冲アナザーワールド』図録に
よれば、上が「藤女鈞印」白文長方印で、下が「若冲居士」朱文円印。
この2つの組み合わせは、1790年代、つまり最晩年の作品に多いようです。

ふむ。

さて、左隻です。



若冲作品のうち「群鶏図」と題された絵って、一体どれくらいあるんだろう。。
山のように見てきましたが、このように一つの背景が一つの屏風全体の中で
連続して存在するのって、実は珍しいです。屏風の一面一面の絵が別々の
空間である(でも連続していたりする‥‥!)ことが多いので、ましてや
背景があるのも珍しければ、それが連続しているのは本当に珍しいです。
風景画を描かない若冲ならではだと思いますが、そういう意味では、珍しく
連続性のある風景らしき構図になっている『石灯籠図屏風』とは点描の
手法も共通しているし、やはり同じ時期と考えた方が妥当、ということでしょう。

右隻でも空間の連続性はありましたが



こちらではちょっと脈絡がありませんし、構図のバランスもあまり取れているとは
言えない感じ。

こうして考えると

左隻の方が、空間的つじつまや構図のバランスが取れている気がします。

また、遠目に見ると、おんどりさんたちのSの字尾羽のリズム感が気持ちいい。

「寄って見るとにわとりたちの個性がいきいきとぶつかり合ってロック!な感じ
なのに、遠目に見るとSの字尾羽が見事に繰り返されていて、物凄く音楽的。。」
っていう傑作も、2010年千葉で見た『伊藤若冲アナザーワールド』では
見ることができて、狂喜乱舞したものでした!

残念ながらこの作品はそこまでの傑作ではない。。というのがわたしの意見です。
Sの字尾羽の連続性も、統一されてリズムを打ち出せているんだけど、それが
ちょっと平板な印象に陥っている気がします。ダイナミックさに欠けるというか。。

しかし‥‥!

見よ、左隻のにわとりさんたちの、この絶好調!な若冲っぷり♪

こちら、左隻の一番右にいるおんどりさん。



丸い線がふっくりと伸びやか。背景の薄墨を塗り残した白い羽根の描き方が
効果的だし、真っ黒の尾羽の伸びやかさとポーズの集中感が若冲らしい!
何より、表情の「きょろん」が絶妙!顔の表情の全てが丸くて可愛らしいのに
若冲特有の「ツッコミ目線」がひしひし感じられて。。面白い!!!

このにわとりさんの「グェッ‥‥?」の先にいるのは、真っ白いおんどりさん。

右の人、見てもいないんかーい!

でも、この人も(小さく)「グェッ‥‥?」ってなってるところなので、これまさに
「グェッ‥‥?」のリレー。

若冲だ。。

真っ白おんどりさんは、余白を残すことと薄墨でさーっと描き出されています。
羽根の流れも質感を巧く捉えているのでしょうが、わたしはどちらかというと
首の辺りや手羽の簡略化された線の巧みさ可愛らしさに惹かれます。
少しだけ赤を滲ませた顔回りの無駄のない形も、小気味いい感じ。

左隻の右端の絵の中の「グェッ‥‥?」のリレーの先にあるのは、左隻の真ん中に
位置する、この絵。



ポーズだけ見たら、それこそ『動植綵絵』の中でも見られるような緊迫感みなぎる
ポーズのはずなのですが。。。何だ、このユルさはっ!(笑)

真ん中の絵の、右にいるひとたち。



何でしょうこの可愛らしさはっ!

立ってる方のひとなんて、おなかが水玉模様です。ポルカドットです。
もしゃもしゃ描かれた細かい毛羽が、相手に対して自分を大きく見せようと
しているように見えて、何とも言えないおかしみが。おもちみたいな
真っ白な首に、まん丸い目とまん丸い口元。全てがぽわんぽわんしていて
可愛いったらっ!!!胸の真ん中辺りに描かれた爪みたいなもの。。これは
何だろう???何であるにしろ、とにかくポップな感じで描かれています。
それでいて、Sの字尾羽や背中から流れる白は本当に流麗!はぁ〜見事だ。

アップにしちゃおう。


もっとアップにしちゃおう。


隣のめんどりさんも秀逸!



白を縁取る描線が圧倒的なリズム感です。鳥が羽根を逆立ててボワっと
丸くなる時って、信じられないほど規則性があって、見事に均一に丸い
じゃないですか?若冲さんの筆は、その境地まで行っている気がします。

そして、このめんどりさんを構成する線がどれも全て見事に同じテンション。。
本当に、凄い。(そして、可愛い)

シンプルだけど表情が的確な顔の描き方も気持ちがいいし、尾っぽを
おんどりと同じタッチで描いている辺りには、あたたかみも感じられます。

わたし、このめんどりさんの足が好きです。トトロみたい!!!(笑)

水玉おんどりと白くて丸い菊みたいなめんどりのカップルと対峙するのは



こちらのお二人。

筋肉が非常に緊張しているはずのポーズなのに何故だか何ともユーモラスな
感じになっているのは、こちらのおんどりさん。


このユルさはどこから来るのでしょう。。
デッサンがちょっとテキトーだからでしょうか。。

首の毛羽のラインがデザイン的というか、漫画っぽいニュアンスがあって
リキみをうまく逃がしているんでしょうか。

ただ、質感の描写の巧みさや顔の表情の一瞬の緊張は、もう本当に若冲らしい
的確な濃密さを感じるのです。感じるには感じるのです。なのに、ユルい。。。

何だか左隻中央のこの睨み合い、どちらも弱そうに見えるのがポイントなのかしら。

左のひとのお連れさんもナカナカです。


出た!たまごひよこ!!!

このめんどりさんはまたもやぷりっとしたお尻をこちらに見せているわけですが
ひよこさんたちも「たまご」としか言いようのない形をして、ユーモラスな姿を
ふりまいています。
めんどりさんは、羽根の模様も、お尻のラインも、胸のシルエットも、
見事なまでの「ぽわん」とした丸み。
それを取り囲むようにして描かれたひよこさんたち、まさに「丸描いてちょん」
状態!!!この思いっきりのいい描き飛ばしが痛快です。
「丸描いてちょん」でも、その線にちゃーんと、表情があって。。

穏やかです。

彼らの頭上には

梅の枝。

節くれ立った枝に、まぁるく膨らんで弾けるようにして開く、梅の花。
無駄がなく切れのいい花からは、ほのぼのとしたユーモアの香りがします。
梅にさりげなく施された黄色い彩色が、何気ないけどポイントになってます。

(続きます)
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# 世界一遅い『ゲゲゲの女房』語り
タイミングが世間とズレてたっていいんだい。
年末の総集編で、ずっと気になっていた台詞を確認できて、涙を流して
感動したんだい!

というわけで2011年になって『ゲゲゲの女房』を語る。

『ゲゲゲの女房』、途中からではあったが、欠かさず見ていた。

朝ドラなんて真面目に見たのは何十年ぶりだろう。わたしの回りにも、
「朝ドラを見ている」なんて人はこれまで一人だっていなかった。皆無。

しかし見る目のある友達に薦められて4月の終わりかな?から
見始めて、おすすめ通り物凄く面白くて。。気が付けば、回りの
友人たちのうち見ていないのは一人だけ、という事態になっていた。

いやぁー素晴らしかった。

とにかく、脚本が本当に本当に素晴らしかった。

うなぎ上りの視聴率に、ネットのニュースなどには「なぜこんなに
ウケたのか」という分析などが載ったりもしたが、どれも見当外れも
いいところだと思った。
何のことはない、本当に本当に作品が素晴らしかった。
それだけのこと、だと思う。

もちろん「貧乏のどん底にある苦労人の漫画家が、如何にあの知らぬ者の
ない『ゲゲゲの鬼太郎』という大ヒット作を生み出すか」という興味は、
誰にもあったと思う。
この不況の世の中にあって、主人公たちを次々に襲う笑っちゃうほど
手痛い貧乏の波をも辛くなりすぎずに見続けられたのは、視聴者の誰もが
「この先には『鬼太郎』の栄光が確実に待っている」ことがわかって
いたからこそだ。
或いは、その筋書きが、不況に耐える世の奥さまがたの心に「希望」という
灯を灯し、アピールしたのかも知れない。

他にも出演者の魅力とか、色々と理由はあったのだろう。

でもそれもこれも、脚本があれだけ素晴らしかったから輝いたのだと思う。

何が凄いって、思い起こせばこのドラマ、言ってみれば「斬新な部分が
ない」作品であったことだと思う。
夫が戦争を経験し稀な才能に恵まれそれを存分に追求した、という以外は
本当にどこにでもいる妻、どこにでもいる子供、どこにでもいる家族の姿。
だからさんざん語り尽くされた物語も展開するし、これまでさんざん
交されてきた台詞も交される。

それでも『ゲゲゲの女房』は毎週毎週、惚れ惚れするほど面白かった。

設定に何一つ斬新な切り口がなくとも、揺るぎないテーマという骨子に
人間の営みを確かで豊かなまなざしで見つめた物語を肉付けしていき、
ストーリーテリングの巧みな技術を使って味付けする。。それによって
こんなにも現代を描き現代を揺るがす作品になるのか!
物語と向き合う人間にこれほど有意義な教訓を示してくれる作品も
なかなかないと思う。

個人的に何が一番凄いと思ったかというと、時に対極として描きがちな
「家族」と「創作という名の狂気」の二つを「営み」という大きな、
本当に大きなテーマでまとめあげた手腕、ということに尽きると思う。

8月には、そこに「あの戦争」というテーマまでも絡めて、まさに
天晴れとしか言いようのない見事さだった。

母に似て強いこととが言えない長女藍子。その性格と「父親が有名人である」
という事実が噛み合わず、回りとの間に生じるズレ。
それと同時に語られる、本当にギリギリで九死に一生を得たにも関わらず
生還を歓迎されず、死を強要された茂の苦しみ。
強い意志を息子に授けた茂の母絹代が、藍子に「間違っていないなら
正々堂々としていればいい」「弱い自分に言い訳をし始めたら、それこそ
本当の嘘つきになってしまう」と諭す。
その言葉に力を得て、藍子は母布美枝に悩みを打ち明ける。
夫の戦争体験を聞いて夫の執筆姿勢と改めて向き合うチカラを得ていた
布美枝は、「誰にでも弱さはあるけど、出来ることを頑張ろう」と
藍子の気持ちをしっかりと受けとめる。

‥‥こうして書いていてもため息が出る。見事だ。
息子にチカラを授け生還を信じた頑固な母、
命からがら生き延びた戦争を背負って創作へと昇華している漫画家、
その記憶の重さに驚き悲しみながらも自分なりに受けとめ、それを
子供たちへいい形で循環させようとする妻であり母、
自分の性格や生まれた環境や回りとの距離感を少しずつ自分で築こうと
している幼い娘__
それぞれの生きるドラマが折り重なり響き合い呼応し合い「生きる」ことに
向かう、本当に素晴らしい展開だった。

茂の仕事が途絶え、また自身スランプに陥った週のどラマも見事だった。
その時に絡めてあったのは次女喜子が感じていた、回りとのズレ。

長女のそれとは違って、芸術家の感性を父から譲り受けた次女のそれは
ずばり「感性の違い」そのものだ。高校生当時の喜子の悩みは、
なるほど深い。

「目には見えないけど、いる」
これは『ゲゲゲの女房』に通底するテーマの一つだが、この時の
茂には目に見えない世界が見えなくなっていた。信じられなくなっていた。
それは即ち、それまで築き上げてきた自分の世界、価値観が信じられなく
なっていたことに他ならない。
妖怪大好き似たもの親子が、いつも親しく遊んでいた妖怪の世界との
繋がりを失って心細くしているさまは、見ていても寂しいものだった。

そこにずばりと斬り込んできた茂の昔馴染み(或いは戦友)戊井の
言葉が凄かった。
「本物は消えない」
「どんなに苦しくても描き続けてきたあなたの底力はこんなところで
終わるようなものじゃない」
茂にみるみる漲っていくチカラが見ていて眩しかった。
まさに「目に見えないけど、ある」、底力。
その底力が、茂の元に、そして喜子の元に、妖怪たちを呼び戻す。

「自分を信じる大切さ」は人生の真理だし、あらゆる物語のテーマだが
この直球でない、でもブレのない訴え方が、本当に心に染みた。

南方で茂が危機的状況にあった頃、郷里の両親がその様子を夢に見て
「死ぬな!」「生きて帰れ!」と一晩中呼びかけ続けた、という
エピソードには身体が震えた。

このドラマで描かれる愛は命そのものだ。

「生きる元気をくれる」なんて曖昧なものじゃなく、『ゲゲゲの女房』は
人間が如何にして生きるべきかの叡智に溢れた物語なのだ。

不器用で少々身勝手な男親の愛情(しかも茂と、布美枝の父源兵衛の2人
がかり!)に反旗を翻す藍子の悩みのまとめ方など、もう本当に本当に
感動的だった!

この時の藍子は母ともぎくしゃくしてしまっているので、ここは祖母の
出番なわけだが、わたしは見ていて、父の母である絹代の出番では
ないな、と思っていた。絹代は男の子しか育てたことがないし、自身も
豪放磊落な性格。どちらかというと、考え方が男の理屈なのだ。

そこへ尋ねてくる布美枝の母ミヤコが鮮やかだった。頑固な専制君主
である夫の後ろを半歩下がって歩く典型的な日本の良妻賢母なわけだが、
ふんわりと、でも的確に、夫に言うべきことは言う。
安来に帰る直前、娘と孫娘2人を前に話して聞かせる話がまた、
穏やかで優しく強く、美しい。
離れて暮らす子を持つ親が、どんなに子を心配し、愛しく思うか。
「あなたのことを思って言ってるんだから、わかってあげて」とは
よく言う言葉だが、どれだけの想いかを自分の身を削るようにして
話して聞かせたミヤコの言葉には、桁違いに心揺さぶる説得力があった。

女性が描く、女性だけが生み出す命の営み。その強さと美しさ。
本当に、素晴らしい。

しかしわたしが一番感動したのは、茂の父修平の死の間際の台詞だった。
死の夢うつつの中で、修平は愛してやまない映画館にいる。自らの生涯が
映画となって、スクリーンに映し出される。
しかし、あっという間に終わってしまうその映画。

「なんだ、もう終わりか」

修平は口を尖らせる。

「ああ、面白かったなぁ」

修平は微笑みながら、目を瞑るのだ。
映画や芝居を愛し、夢を見続けて生を愛した男の、大往生。

「ああ、面白かったなぁ」の台詞が凄い。
「でも、面白かったなぁ」じゃない辺りが凄い。
凡人(って、わたしだけど)だったらともすれば「でも」を
付けてしまう気がする。
「もう終わりか。でも面白かった」と。

でも、修平の人生の幕切れに「でも」はつかないのだ。
「なんだ、もう終わりか」は人生の短さを、死という幕切れを迎える
寂しさを、呟く台詞ではないのだ。
「あっという間に感じるほど自分の人生は面白かった」という意味なのだ。

何と素晴らしい、命の賛美。

『ゲゲゲの女房』は本当に、命、その営みを、慈しむ瞬間に溢れていた。

細かい場面を挙げれば、眠るように逝く夫を見送る絹代の
「60年も一緒に暮らしたのに。親よりも長く一緒にいたのに」
という台詞は、悲しいのに、ごく普通の台詞なのに、生き生きとした
人物描写と相まって、その果てしない日々を想像させ、感動的だった。

悲しむ絹代に、ミヤコがかける「いいご夫婦ですね」という言葉も。

亡くなった布美枝のおばばがずっと見守るようにナレーションを
していたのもいい。
ずっとナレーター的に、ある程度客観性のある目線でナレーションをして
いたそのおばばの声が、水木プロ20周年のパーティに出かける布美枝を
見送る時だけおばばの目線になったのにも、本当に心が熱くなった。

その時に布美枝が娘たちに説明する「青海波」の説明も、約半年間
一家の営みに寄り添い続けた視聴者と色々な感慨を分かち合う、素敵な
台詞だった。

水木プロ20周年を祝う近所のおばちゃんたちの宴で、茂の読者
第一号であった太一が持参した貸本屋の美智子さんの手紙を、そこに
いた全員が一人一人慈しむように手から手へと渡していく描写も、
若き日の夫婦の苦労と周囲の支えを覚えている視聴者にとっては、もう
たまらない演出だった。

このドラマが作劇テクニック的にも優れていたことも特筆したい。

子供が生まれる前の夫婦の元へ布美枝の父源兵衛が尋ねてくる時など、
実に巧みだった。源兵衛の上京のすったもんだを描いた直後に、布美枝の
元に思いがけない訪問客が訪れる。誰もが源兵衛かと思うわけだが
そうではなく、布美枝の幼なじみなのだった。幼なじみに対して
要らぬ見栄を張ったり、布美枝は父が上京する前に既に「今の自分と
うまく向き合えていない自分」をみつけ、悩む。そこへ父が上京してきて、
騒動が起きる__という、実に巧い構成だった。視聴者が、先の展開が
気になってグイグイ見続けてしまう、そんな吸引力も生み出せていた。
こけおどしの仕掛けなど使う必要のない、それこそ「底力」のある
物語であった。

「癒し」や「優しさ」ばかりが求められている昨今だが、こうして考えて
いくとこのドラマは、もっと真剣に互いとそして大切なものと向き合う姿勢が
描かれていたように思う。

真剣に向き合うこと、つまり「愛」。
それを連綿と丁寧に紡いでいったのが「営み」。

2010年の大晦日『紅白歌合戦』の審査員席に、『ゲゲゲの女房』の
原作者武良布枝さんは、ドラマの中で布美枝が着ていた青海波の着物に
よく似た櫻色の着物姿で座っていた。
今回の『紅白歌合戦』で熊倉一雄さんが『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌い、
いきものがかりが『ゲゲゲの女房』の主題歌を歌い、源兵衛役の大杉蓮さんと
ミヤコ役の古手川祐子さんが登場し、布美枝役の松下奈緒さんは布美枝を
イメージしたピアノ曲を自ら弾いた。まさに『ゲゲゲ』尽くしの『紅白』。

それを布枝さんは、にこにこと‥‥ではなく、身を乗り出して息をつめて、
真剣そのものの表情で見入っていた。
身を削るようにして作品を生み出してきた漫画家水木しげるを支えた女性の、
それが生き様なのだと思う。



薛 珠麗(せつ しゅれい)
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# 「パレード」

映画作品に興味を持つきっかけってたくさんあると思いますが、
タイトルだけで惹かれた映画があります。

『パレード』。

ベルリン映画祭で賞も穫り、現在公開中です。

(注意:ネタバレを見ないでご覧になってほしい映画です。
このブログは、ネタバレはしていませんが、先入観を与える文章には
なっていると思いますので、映画をまだご覧になっていない方はご注意
ください)

最初は、ある俳優の次回出演作として目に入ったタイトルでした。
そのタイトルに惹かれ、調べると原作小説があり、評価も高いとのこと。
早速小説を手に入れ、ぐいぐい引き込まれて一気に読み終わってしまいました。
読み終わった後も、何度も読み直しました。

ちなみに、物語の内容は、都内の住宅地にあるマンションで共同生活を
する男女4人、そしてそこに加わる5人めの少年。一見だらだらと続く
彼らの日常と裏腹な、彼らそれぞれの様々な顔__といった感じです。

内容と「パレード」というタイトルが、なかなか直結しないかも
しれません。

「パレード」という言葉に、どうしてそこまで惹かれるのか。

2001年9月に通訳及び演出補として携わった舞台『ガラスの動物園』に
登場するある印象的な台詞と、響き合うのかもしれません。

テネシー・ウィリアムズ作『ガラスの動物園』には、輝かしい過去の記憶の
中にだけ慰めを見出す強烈な母親と、足が悪いためか人との関係をうまく
結べない病的に内気な娘が登場します。年頃になってもボーイフレンドは
おろか友達もいず、学校にも恐ろしくて通えず、小さなガラスの動物たちと
遊ぶことしかできない娘に、母親は「外に出なさい」と諭します。
「人様のパレードが通り過ぎるのをただ黙って眺めているだけ?」と。
「人生がただただ通り過ぎるだけ、それでいいの!」と問いつめるわけです。

娘と違って内気とは程遠いけれども、やはり現実の生活から目を背け
過去の夢に逃避することでやっと生きている母親は、この台詞を言いながら
優雅にハンカチを握りしめた手をすっと巡らせます。まるで、目の前に
賑やかで空虚なパレードが本当に通りすぎていったかのように。
小さく巡らせた手は、まるで追いすがるようで、その見えないパレードは
叶わなかった夢、生きられなかった人生の象徴のようで。
何気ないけれど本当に大好きな場面でした。

「パレード」という言葉を見た時に、賑やかできらびやかだけれども
すぐに通りすぎていってしまう一瞬の空虚な輝きや、絶対にその一員には
ならない、なれない人間がただただそれを外から見送る、その寂寥感のような
ものが、瞬時にイメージされたのだと思います。

タイトルにそんなイメージを持って読んだ吉田修一氏の原作小説は、
わたしのそのイメージをじんわりとリアルに、そしてキリキリと抉り
深めていくものでした。
一見どうも直結しない内容の小説に「パレード」という名前が付けられている
ことそれ自体に、何というか、痺れました。

そして、映画。

試写会を重ね初日を迎えると、この一見とてもわかりにくいタイトルを巡って
映画をつくった行定勲監督はじめ、キャスト、映画を見た人々からも、
タイトルについて色々な考えが出て来ています。

かなり特殊な先入観があって「パレード」という言葉と出会ったわたしには
どれもとても目から鱗な新鮮さです。

「自分がパレードの先頭をきって進んでいると思っていた人間が、実は
みんなの後からついて行くだけだった」
「パレードのように、回転木馬のように、きらびやかで賑やかなものは
ただただ巡り巡って、どこにも進めない」
「誰もパレードの行き先を知らない。誰もパレードを降りられない。
誰もパレードを止められない」

映画では、「パレード」というタイトルがとても効果的に使われています。
ぞっとするほどぬけぬけと、そしてポン、と見る者の目の前に投げ出され、
見る者はその意味を自分に問わずにいられない、というほど。

わたしが思い出したのは、「誰もいない夜の通りをゆく、のっぺらぼうの
チンドン屋」っていう奇っ怪なイメージでした。
わたしが「日本のアニメの最高傑作の一つ」と個人的に思っている
『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』という映画に登場する
強烈なイメージです。
この映画では、主人公たちがある1日のある町に閉じ込められます。
日が昇っても昨日と同じ1日が始まり、電車にいくら乗っても着くのは
乗ったのと同じ地元の駅、路線バスのルートもいつの間にかループになり、
どんなに車を走らせてもどうしても町の外に行けない。。。という、
そりゃもう恐ろしい映画でした。
町を出ようと車を走らせている時に、ひとけが途絶えて影絵のようになった
夜の町に、のっぺらぼうのチンドン屋だけがチラシを撒きながらチンドン
奏でているのです。

わたしには、『パレード』のラストシーンの彼らは、まるでのっぺらぼうの
チンドン屋に見えました。

もしくは、死ぬまで踊り続ける赤い靴。
足を斧で斬り落とすしかない、赤い靴。





薛珠麗(せつ しゅれい)
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# 16年と108日ぶり。(拍手コメントお返事追記)
16年と108日前に、たぶん生涯で一番好きな役者に死なれた。

彼に会ったことはない。のちに共通の知り合いはできたが。
(共通の知り合いはわたしの元の師匠でボスでパートナーで、
奇しくも彼が亡くなる前夜に最後のディナーをした相手だ)

本当にいい役者なのだ。絶対に誰にも追い抜けないと言い切れる。
わたしにとっても世界にとっても唯一無二の才能は、
早すぎる、そして悲惨すぎる死に方でこの世を去った。
しかもその死は彼自身のせいでしかなく、
わたしはそれが哀しすぎて許せなくて、
そしてこの才能がこの世から失われたことに向き合えなくて、
大好きでたまらない彼の演技をわたしはその日から見ていなかった。
見ることができなかった。

わたしは役者の演技というものが大好きでたまらない、仕事にしたくらい。
中でも一番好きな演技を、もう16年以上も我慢せざるを得なかったわけだ。
彼が許せなくて。神さまが許せなくて。

ところが、色んなタイミングが合って、昨夜とうとう、封印を解いた!

わたしと同い年の彼は、まるでもう、息子?くらいな年齢になっている。

若すぎる死を迎える役なので、彼を重ねて最後は歯の根が合わないほど
泣いてしまった(ってこれは寒い時の表現だけど、本当に歯が
ガチガチ鳴るほど号泣したのだもの)彼が映るパソコンの画面を、何度
そっと撫でてしまったことか‥‥(←そっとしておいてやってください)

‥‥でも、それよりむしろ。

歓びの方が大きい自分に、本当にびっくりした。

やっっっぱり好き。

本っっ当にうまい。

何っっという輝き!

彼の輝かしい未来を奪った神と彼自身への怒り哀しみよりも、
時を経た今、少しも色褪せない彼と会える、この奇跡を噛みしめる。

最後に彼の演技を見た時よりも目が肥えてるはずのわたしだけど。。
(っていうより、肥えてなきゃ嘘なんだけど。。)
やっぱり世界一うまいよ〜
やっぱり宇宙一かっこいいよ〜
やっぱりこんな好きな役者いないよ〜

久しぶりに会えて、嬉しい。
生まれてくれてありがとう。
映画に出てくれてありがとう。

とにかくわたしはまた、一番好きな役者の演技が見られるようになった!
めっちゃくちゃ、嬉しいっ♪



薛珠麗(せつ しゅれい)


追伸:拍手に添えていただきましたコメントへのレスを続きに追記します。


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# イマジネーション新時代 〜終わりか、始まりか。
映画というものを、わたしはそれほど好きではありません。
以前にもこのブログに書きましたが、見るのは年に数えるほど。
じゃあレンタルするのかといえば、それもあまり。

ましてや『アバター』なんて、 滅多に見ない「ハリウッド大作」だし
「3Dなんてチカチカしてきれいに見えないし気持ちが悪くなるだけ」
「人間と異星人の遺伝子を掛け合わせたなんて気持ちが悪い」という
理由で、お金もらったって見ようとは思いませんでした。

でも、公開から1か月経ったくらいからあまりに色々な人が__中には
かなり意外な人が__「面白い」と絶賛するし、思えばこれほど
「映画館で見ないと意味がない」映画もなかなかないかな、と思い直し
映画館へ出かけました。

いや、でも、めっちゃくちゃ面白かったです『アバター』!

わたしにとっては、映画も演劇も、要するに「疑似体験」であることが
大切なのだといつも思っています。
現実とは違う世界に遊んで想像の羽根を羽ばたかせ、現実に戻った時には
自分の世界との向き合い方が一つ豊かになっている__それが最高だと。

『アバター』はそれこそ「疑似体験」。

3Dによって奥行きを与えられた、徹底して作り込まれた壮大な世界。
その中にすっぽり取り込まれ、物語を我がことのように生きる3時間近い
錯覚の時間。本当に本当の「疑似体験」。
ここが地球だということも、自分がちょっと高いところから飛び降りただけで
大怪我したり死んだりするような身体能力しか持ち合わせていないことも、
何だか忘れてしまいそうな時間。

怪しんでいた3Dも、わたしはストレスゼロでした。メガネは邪魔ですが
画面はきれいで自然で違和感ゼロ。目を驚かすためだけに色んなものを
飛び出させるような画を追求しないところ、さじ加減も巧いというか、
「飛び出す」より「奥行き」と「浮遊感」の方に使っているというのは
あっぱれ、大成功だと思ったのです。

でも、見ていてずっと気になっていたのは
「この映画に今どれだけの本物が映っているのだろう」
ということでした。

エンドクレジットを見ていて、ナヴィ族のヒロインには黒人の女優が
キャスティングされ、ニュージーランドでロケが行われていることに、
小さな衝撃を受けました。

この場合、何をして「演じる」ということとしているのだろう。
モーションキャプチャーと声?
ニュージーランドでは何を撮ったの?あのジャングルのどれくらいが
本物なの?

全てがまるで本物にしか見えない、ヴァーチャルな世界。
全てが本物に見える為には、偽物で画面を埋め尽くし、
本物すらも偽で加工する。
そうしないと、本物には見えないから。

映画はこれからどこに行くんでしょう。

わたしが映画をそれほど好きじゃない理由の一つに「カメラが(つまり監督が)
勝手に視界を切り取るから」ということがあります。
舞台であれば、自分の好きに自由にフレームを切り、カメラを動かし、
アップにできるのに、映画では、物語のどこを見るべきか、をあらかじめ
決めてあります。

『アバター』を見て思ったのが、3Dの場合それはもっと顕著なんですね。
わたしは何度も「見たいものが見えない」というストレスを感じました。
見せたいものにピントを合わせてあるから、時に、その手前を見ようと
思ってもピントが合わない!わたしの体は律儀にも、合わないピントを
必死に合わせようとしてくれるので、何度も無意識に体が動いてしまったり
ちょっとクラッときたりしたのでした。

こんなスゴイ映画が作れるようになっちゃったからこそ、もう
「ナマの人間こそが最高のスペクタクル」な日がくるしかないんじゃない
でしょうか。
‥‥そう自分に言い聞かせないではやっていられない、というのが正確なところ
かもしれません。

自分がイマジネーションを使わなくても、視覚的に全てを提供してくれる。
3Dメガネをかけてパンドラの森を、空を、手に汗握って飛び回るわたしは、
咀嚼の必要もないほどミキサーで切り刻まれたイマジネーションを
寝転んだまま口に流し込まれているブロイラーのよう。

イマジネーションのブロイラーになりながらしかし、色々と考えました。

この映画、世界興行収入の新記録を最速で打ち立てたということですが。。
アメリカ国民はどう受けとめているんでしょうねぇ。

ストーリー的には、まるで台本をコピーしたのかっ!ってくらい
『ラストサムライ』でした(笑)

それはつまり、アメリカの対ネイティブアメリカンへの罪悪感の投影、
ということ。
『ラストサムライ』では日本に置き換えていたけれど(そしてその置き換えは
とても見当違いだったけれど)『アバター』はもう、そのものズバリ。

しかも『アバター』は「過去の罪悪感」だけではなく、
「アメリカが今やっていることへの皮肉めいた批判」で満ち満ちています。

『アバター』は賢いことに「アメリカ」とは多分一回も言っていませんが
「かつて学校を開いて原住民に英語を教えていた」だとか
「原住民たちはハンバーガーもジーンズもほしがっていない」という台詞が
ある辺りが、アメリカが世界各地で曝してきた幼稚__自分たちの価値観を
誰にでも押しつける頑迷__をズバリ指摘していると思うのです。

しかも、惑星パンドラの豊かな自然と文化とその融合を粉砕する勢力が、
この映画では「どこぞの政府」ですらない。
高価な鉱物への欲と、そこで動く莫大な金に踊らされる科学力と武力。
それだけ。
オイルマネーが狂わせた中東情勢や、戦争にすら企業が参入する国
アメリカへの、これが皮肉でなくて何でしょう。

‥‥と同時に、さすがに主人公たちに「アメリカの敵国に寝返って
星条旗に武器を向ける」という行為はさせられなかっただけ、
とも言えますが。これは『ラストサムライ』の時にも感じましたが。
こればっかりは、アメリカ映画として絶対に超えられないライン、という
ことなのでしょう。

キャメロン監督はつまり、逃げ道を残しつつも、アメリカの歴史と
価値観と今まさに世界でやっている行為、ひいては肥大した資本主義が
資本主義的でない豊かなものをなぎ倒してゆく現代の人間の社会という
ものを、徹底的に皮肉って、そして批判していると思うのです。

映画館につめかける現代アメリカの市民たちは、この辺どういうふうに
認識しているのでしょうねぇ。とても興味があります。

無知であればあるほど、冒険物語としてただただ楽しく見られる。
アメリカの罪についてしっかり考えていればいるほど、寓話として色々と
考えさせられる。
そういうエンターテインメントだから、もしアメリカで高い支持を得ている
というのが本当だとするならば。。それは、無知な人がよっぽど多いか、
しっかりモノを考えている人がよっぽど多いか。。 どちらかなのです。
後者だといいなぁ。
(もしくは、自分は無関係だと考える層が多い。。というのも、大いに
あり得ます)

やっぱり、州ごとにこの映画の受け取られ方が違ったりするとか?
社会的な階級による違い、人種による違い、教育レベルによる違いは
絶対にあるだろうなぁ。あ、銃規制法への考え方も関係してきそう!

『アバター』への意見と支持政党の相関の統計でもとったら、絶対に
面白い結果が出そう。

ざっと検索したら、やっぱり「左派映画」と保守層からは大バッシングな
ようです。うーん何だか痛快。

じゃあジェームズ・キャメロン監督本人の支持政党は?と気になるわけですが、
彼は何とカナダ人なのだそうです。なるほど。納得。 ずるいなー。
保守派批評家たちの「非アメリカ的」という批判(アメリカでは「反アメリカ」
どころか「非アメリカ的」すらも「批判」になり得るのだそうです。。)に
対しては監督、「文明そのものへの警鐘である」という感じの、当たり障りない
返答をしているようです。

‥‥うん、やっぱり、ずるい!


純度100%のエンターテインメントでありながら、『アバター』は見る者を
試す映画でもあると思いました。

ミキサーで砕いた流動食のようなイマジネーションをただただ摂取して
ぶくぶく肥満していくだけになるか。
パンドラの原始の森に散りばめられた未来へのヒントに、どれだけ気づけるか。



薛珠麗(せつ しゅれい)
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# 若冲はんのいのち。
ブログの更新が滞ってます。自分の文章を紡ぎ出すよりも、インプットしたり
下地を整えたりの日々です。

ブルーレイレコーダを買ったので、嬉しさのあまり色々な番組を無闇に
録画して見ています。最近、NHK教育が面白くてたまりません♪

以前からたまに見ていた『新・日曜美術館』、先週は my フェイバリット絵師=
伊藤若冲でした。題して『夢の若冲・傑作10選』。

どれも見慣れた画で解説も多くはビギナー向けな感じでしたが、中には新鮮な
切り口の視点もあり、なかなか面白く見ることができました。

‥‥それどころか、何と2回も涙を流してしまいました。
わたしは涙もろい方ではありますが、アート教養番組で涙を流すとは。。
自分でもびっくり。

10選のうちの1幅、『貝甲図』。

太平洋の真ん中や深海でしか取れないはずの貝も含め、100種類以上の貝が
まるで図鑑のように正確に描かれたこの絵。
裕福とはいえ、海の近くに住んでいるわけでもない江戸中期の絵師が、普通に
考えたら手に入れられるはずもない貝が多く描かれています。

番組では、その謎を解く鍵として、木村蒹葭堂の貝のコレクションを紹介しました。
今も大阪の自然史博物館に保存されている、漆の重箱に入れられた美しく稀な貝たち。
当時の関西では知識と文化教養の中心であったこの文化人と、若冲は親交があったと
言います。太平洋の真ん中でしか取れないはずの貴重な貝も、そこで確認できるの
です。若冲が描いたのと、計ったように同じ形、同じ色の小さな貝殻。。

わたしは、涙が止まらなくなってしまいました。
小さくて大きな、ささやかで力強い、ありふれて神秘的な命たちを生涯、
描き続けた若冲はん。亡くなってから210年が経つこの絵師が描いたものたちは、
当然、もうこの世にはありません。若冲はんの描いた絵の中では、うるさいほど
鮮やかに、息づいてはいますが。
若冲はんがみつめ、描き、その命の痕跡のひとつひとつまでも愛でるように
写しとった対象が、今も、この世にあるなんて!
若冲はんがみつめたのと同じものを、現代のわたしたちも、見つめることができるなんて!

奇跡のように、思えたんです。
「若冲はんは、この世に確かに、生きていたんだ」
当たり前のことですが、そんなふうに思って、それも心から思って、もう涙が
止まりませんでした。

「250年くらい、早く生まれたかったなー。それも、京都に」と、半ば本気で
考えているわたしです。

番組が最後に紹介したのは『百犬図』でした。
当時の寿命を考えればほとんど「仙人」と思われていただろう、84歳という長い
人生を生きた、若冲はん。長寿な上、亡くなる直前まで精力的に絵を描き続けた
その長い人生で、最後に描いた絵とも言われています。



晩年の絵の中には、匠の極みとも言えるサイッコーに渋くてかっこいい絵もあるし
おちゃめでいたずらジジイな絵もあるのが、この伊藤若冲という絵師の魅力です。
その内この絵はおちゃめでユーモラスなほうの若冲はん、とわたしは、この絵と
直接対面した時も勝手に思い込んでいたように思います。

でも【「百」にも「子犬」にも「安産」「多産」の意味がある】という解説を
聞いていたら、それは違うんじゃないかと思い始めました。

男という性に生まれ、しかも、生涯妻を娶ることのなかった若冲はん。
命を愛し抜き、命にこだわり抜き、命に生涯向き合っていた若冲はんは、
命を生み出さない性に生まれ、かつ自分からは命を生み出さない生き方を
選んだのですね。

絵は、命を生み出さない彼の、命を生み出す手段だったのです。
そんな彼が自分の命の終わりに差しかかった時に描いた、
あふれ返る泉のような命。

命への祈りを、若冲はんはきっとこの絵に託したのです。

どうやら子供を持たない人生を歩むことになりそうな一人の人間としても、
本当に涙が止まりませんでした。さっき流れた涙も、まだ止まっていないのに。

わたしは、演劇でこういうことがしたいです。
「命と向き合い、命を継いでいく」
あらゆる表現とか芸術とか文化とかエンターテインメントとか人生とかの
これが、たった一つの、本当なのかなぁ、と思います。



薛珠麗(せつ しゅれい)
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