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薛 珠麗(せつ しゅれい)のブログ
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# 「英語で読むミュージカル」の「根っこ」その2。
「その1」に続き、その2。

「【海外】を背景幕に【日本】を見る」というテーマを最初から決めてあった
わけではなくとも、何しろ「英語」と「国際感覚」を武器に演劇をやってきた
ため、18年半のあいだ結構な数の仕事をしてきたうち、「外国」が何らかの形で
関わらない舞台をわたしは一度もやったことがない。(た、多分‥‥)
作家が外国人か、はたまた演出家が外国人か。

外国語戯曲の翻訳家として、或いは外国人演出家の通訳やアシスタントとして、
海外の面白い作品や面白い演劇人を日本演劇界にもたらすお手伝い、というのが
わたしが18年半の間やってきた主な仕事、ということになる。

しかしもう明治でも戦後でもないので、海外から来るのは「お雇い外国人」でも
なければ「GHQ」でもないし、「舶来品」への盲目的な信仰はもうとっくの昔に
廃れていると思うのだが、でも、どうだろう。

全体的に、こう、うっすらとではあるが「海外作品の方が面白い」「外国人
演出家の方が面白い」という空気が、流れてはいないだろうか。

殊にミュージカルにおいては、全体を総括した場合、やはり海外作品が質量共に
凌駕している印象だ。
(もちろん国産作品にも名作は多々あるが、ここで論じているのは全体像だ)

わたしのブログをご覧になっている方であれば(↑のタイトルで書かれた記事で
あれば尚のこと)「海外ミュージカル大好き」な方、「外国人演出家が手掛けた
舞台は面白いことが多かった」という方が多いと思う。

わたしが仕事で関わってきた日本の演劇制作者は、観客以上にそう思っている。
定期的に海外に出て次のヒット作を探しては天文学的なお金を出して買って
きたり、日本人演出家より高額の費用がかかる外国の演出家を招いているのは
彼らだからだ。

しかし、海外作品と外国人演出家、そして日本演劇界と日本の観客。その間に
ずっと立ってきたわたしの心の中で、ある一つの叫びがどんどん大きく
育ちつつある。

「【言葉の壁】は絶対に越えられない」

この、一見絶望的な一言。

ストレートプレイ作品はいいのだ。
戯曲だけなら、そこにあるのは言葉だけ。
そこに込められた作者の「伝えたいこと」を、現代日本に生きる観客に最大限
伝わるよう、必要なだけ「解体」ができる。解体して、再構築できる。
(それだって、実際やるのはとてつもなく大変なことで、全ての舞台が
それに成功しているわけでは全っ然ないと思うが)

しかし、ミュージカルとなるとそうはいかない。

100%断言するが、ミュージカルの面白さは、他言語に訳した瞬間に
損なわれている。

どんなミュージカルも、原語が絶対に一番面白い。

なぜならば、遠い日本で何年にもわたって愛されるに至るような作品は
作者たちが何年もかけて編み上げた作品だからだ。
状況、言葉、気持ち、音楽、音色、響き、声。
それが全て一丸となり、一つのエネルギー、命となって、時にもがき、
時に光を探し、そして時に飛翔するべく。

「日本語訳でもそうなっている」
そう主張する方もあるかも知れない。

しかし、原語における「ある一音を歌うのはこの言葉のこの音でなくては
ならない」の「なくてはならなさ」は訳したものの比ではない。
多くのミュージカルが曲と歌詞を一緒に、じっくりと時間をかけて
練り上げているのだ。
「どうしてもこの音とこの言葉でなくてはならない」のレベルまで。

例えば、みんなが大好きな『Wicked』の『Defying Gravity』。

最後に歌われる言葉は「bring me down」の「down」である。
この大ナンバーが辿る道のりを最初から共に辿っていると、最後が
「down」であり、そこでエルファバが飛翔することに、聴く者は涙を
禁じ得ない。

なぜ「down」で飛ぶのか、それが感動的なのか。
一瞬不思議に思われる、この組み合わせ。

ここでエルファバは「何人たりともわたしを引きずり下ろせはしない」と
歌っている。
「bring me down」は「引きずり下ろす」の部分、「down」は「下」だが
ここでは「下ろす」に該当すると言っていい。

気をつけて聴いていただければ、音楽的には「me」でぐっと引っ張り
上げられ、「down」で解き放たれているように感じると思う。
しかし「down」は本来「下」だし、音としても重く、力がこもる音だ。
では何故「down」で解き放たれるのか。

それは、エルファバが「down」で蹴っているからだ。
彼女の飛翔を止めようとするもの、地べたに繋ぎ止めようとするもの、
その全てを蹴って、飛び立つからだ。

「でも、じゃあ【me】の方が音が高いのは何故?」と思ってしまうが、
そこにある全てより「わたし」を高いところに置く、その矜持が
エルファバに翼を与えているとわたしは考える。

最後の「bring me down」のフレーズをエルファバは繰り返すが、それは
「わたしを引きずり下ろすことは誰にも出来ない
 引きずり下ろすなんて!」
という、強調を目的とした部分的な繰り返しとして書かれていると思うが、
別の読み方をすれば、「bring me down」は「命令形」として独立も
できる。
「わたしを引きずり下ろすことは誰にも出来ない
 引きずり下ろしてみろ!」
という解釈も成り立つわけだ。

いずれにしろ、エルファバは目の前に立ちはだかる障害の全てを自らの
力と意志ではね除けている。

タイトルだって「defying gravity」。「重力に逆らう」と直訳できる。
「defy」という言葉だけだと「反抗」「反逆」「挑む」といった意味に
なる。

日本でつけられた「自由を求めて」というタイトルも、「bring me down」に
該当する箇所につけられた「いま」「やれるわ」という歌詞も、「上」しか
見ていないように、わたしには思われる。

「下」に繋げ止めようとする大きな力に、エルファバは逆らって、
それどころか蹴って弾みをつけて、飛翔するのだ。
この歌を名曲足らしめているのは、束縛を断ち切る時にしか生まれない、
覚悟と苦悩と高揚感とパワーだとわたしは思う。
あのアホみたいに歌がうまい Idina Menzel ですら、「me」を歌う時は
限界と戦っていっぱいいっぱいではないか。
ここより高いところにある自分を獲得する、苦しみ。
それを自らの手に掴んで一気に飛び立つ「down」で、エルファバの声は
どこまでもどこまでも、広がっていくのだ。

もっと言えば、「発声」という技術の基本の一つに「地面に向かって
押すようにイメージする」というのがある。
上に引っ張る力と下に押す力、その二つの間に「歌」は生まれるのだ。
本当に全てが、想いと音楽が相乗して高みへと飛翔するように、あの歌は
書かれている、というわけだ。

『Defying Gravity』だけではない。

名作といわれるミュージカルには、こういう宝がざっくざくと物凄い数、
日本語歌詞の底に埋もれている。

断言しよう。
皆さまが大好きな海外ミュージカルは、原語の方が軽く100倍は感動的だ。

念のため断っておくが、わたしは人様の翻訳に難癖を付けているわけではない。
ミュージカルは翻訳したら本来の魅力が損なわれる、という抗いようのない
事実を言っているまでだ。
全てのメロディが特定の言葉を歌うために書かれているのだから、言葉を
変えた時点で命を失うのは当然なのだ、本当は。

第一、日本語という言語は音数が多く、ミュージカルの歌詞には物理的に
英語の1/3とか1/4しか入らないのだから、はじめから大きなハンデが
そこにあるのは当然で、仕方のないことなのだ。

「そんなこと言っても、わたしは英語がわからないんだからしょうがない
じゃない」と言う方もいるかも知れない。
「だからコツコツと勉強して原語で読んでいるんじゃないですか」と
言う方もいるかも知れない。
「そうかも知れないけど、翻訳した歌詞でも充分感動的だから、わたしは
それでいい」という方も。

実際「そんなことを言っていたらせっかくの素晴らしいミュージカルを日本で
楽しむ機会がなくなるじゃないか」という動かぬ事実もそこにはあるので、
「翻訳ミュージカル」というもの自体に異論を唱えるつもりは毛頭ない。

ただ、翻訳された舞台にふれただけではわからない、大好きな作品たちの
底力を、「ミュージカル」という表現手段がまだまだ隠し持つあらゆる可能性を
日本の演劇人、演劇を愛するシアターゴアーの皆さまにも知ってほしいと、
わたしは切に願うのだ。

物語も言葉も音楽も声も、全てが力を与え合って飛翔する歓びを、ミュージカル
役者の皆さんにももっともっと知ってほしいし。

ミュージカルって、本当はもっともっと凄いものなのだと、わたしは思っている。

それを徹底的に知ることによって、日本のミュージカルはもっともっと面白く
なり得るともわたしは信じているし、日本の物語や日本語の言葉が、「胸に迫る
音楽」という翼を生やす機会も、もっともっと増えるはずだとも信じている。

最初に書いたように、言葉の壁は越えられない。
「越えられない」は言いすぎでも、たやすく越えられるものではないし
なくすべきものでもないと、わたしは思っている。

全ての壁を取り払ったところで、そこにあったはずの「歴史」に裏打ちされた
「文化」が失われるだけだと思うからだ。
言葉の壁には窓や扉を作って、わたしたちはそれぞれ向こう側へいつでも
出かけられる「鍵」があればいい。
窓や扉は「視野」であり、鍵は「知識」ではないだろうか。

「日本語の壁」がわたしたちをぐるりと囲んでそびえ立つ強固なものなので
あれば、その中に豊かで風通しがよく、視野が広く寛容、かつ好奇心いっぱいの
王国を築けばいい。

壁をしっかりと認識することで、その向こうも、その中の自分たちの文化も、
把握できるし豊かにすることもできる。

わたしはそう思う。

そして、いつか。

世界のどことも違う、日本からしか発せられない声。
エキゾチシズムとかそういったこれまでの衣は全て脱ぎ捨て、
「日本の感性だからこそ言葉にし、歌に歌わせることができた」と世界中の誰もが
認めるような、数々の壁をものともせず世界へ満ちていくような、普遍的で豊かな
ミュージカルが、生まれたら。

もしそんなミュージカルが生まれたら、どんなブロードウェイ・ミュージカルより
ウェストエンド・ミュージカルよりもウィーン・ミュージカルよりも、感動的な
作品になるかもしれないじゃないか!

‥‥まぁそれをゴールにすべきかどうかはわたしにも正直まだわからないが、
とにかく日本の劇場は、その他の文化から生まれた作品をただ愛でるだけでなく
ただ崇めるだけでなく、より深く知ることによっても、もっともっと面白い場所に
なることができる。それだけは間違いない。

そのためにも、わたしは自分にも出来ることとして「英語で読むミュージカル」
というテーマで講演を開催している
というわけだ。

もちろん自分としては、ここにとどまることなく、日本の劇場がもっともっと
面白い場所になるためにわたしにもできることを、一つ一つ形にしていこうと
思っている。

「芝居ほど面白いものはない!」という興奮の火の手が色々なところで
あがるためには、どんな小さな火の粉にもチャンスはあるはずだ。
そう信じている。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)

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# 「癒し」の麻薬
久々に「言」カテゴリーで書くブログだ。
(そして先ほどに続き本日2回目の更新!)

演出家アシスタントとして稽古場の通訳をしている『ルドルフ THE LAST KISS』
稽古中に気づいて、ハッとしたのだ。

演出家が使った「heal」という言葉。

一般的な訳語である「癒す」に訳してから、「うわ!」と思い、後から直した。

英語の「heal」というのは「傷や病気が治癒する」或いは「治癒させる」という
意味だ。

日本語の「癒す」も本来同じ意味であるはずだ。
しかし、最近の日本語では「ほっこりする」「ストレスがふわっと軽くなる」
くらいの意味になってはいないだろうか?

寛げるカフェや温泉を「癒しの空間」と言ったり‥‥
可愛いペットに触れて「あ〜癒される」と言ったり‥‥

‥‥本来の意味とイマドキ日本語における用法の乖離に気づいて、わたしは
何だかぞっとしてしまったのだ。

ストレスやプレッシャーや悩みの根本と向き合わずに、一瞬だけ楽になる
ことばかりを追い求めてはいないだろうか。

病や傷や苦しみを完全に治癒するための治療‥‥原因を追及したり断ったり、
薬を与えたり根気強く自己回復を待ったり‥‥を怠って、麻薬を与え続けて
誤摩化すだけになっていないだろうか‥‥?

時おりそんなことを自分に問いかけてみるのもいいかもしれない。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
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# 「ダメ出し」

2言語が行き交う芝居の現場を語る時に、この一言を避けては通れまい。

わたしがこれまでに接した欧米人演劇人が全員、「えぇーーー!」と
驚く演劇用語 in ジャパニーズ。

「ダメ出し」

これである。

excite辞書によれば

駄目出し:
他人の行為や仕事などに対して,批判を行なったり,改善を促したりすること。
〔元来は演劇・芸能の分野で,演出者が演技や台本などの悪い点について
 注意すること〕

とある。

まぁ実際の「ダメ出し」というものには「あそこのあれはうまくいったから
あれでいこう」といった「悪い点」を指摘しているわけでない言葉も含まれる。
それらも全て含めて「ダメ出し」と言う。

しかし、わたしはそんな方と仕事をしたことが一度もないが、世の中には
「本当に【ダメ】しか言わない演出家」っていうのが、いるのだそうだ。

「違う、そうじゃない」と。

「じゃあどうしたら」と問えば「そんなの役者の仕事だ自分で考えろ」と。

わたしは演出家の通訳/演出助手/演出補を何十本かやってはいても、
わたし自身の演出はまだ数本なので偉そうなことは言えないが‥‥

でも言う。

「ダメ」しか言わないんじゃ、やっててつまらなくないのかなー、と。

「ダメ」っていうのは、小さな言葉だけど、言われた方にとっては案外
「全否定」である。
事あるごとに出していては、まさに「賽の河原」。
せっかく積んだ石を全てゼロへと吹っ飛ばしてしまう言葉、だと思う。
吹っ飛んだ石の中にきらきらと美しい宝石や、石ころでも「これ」と思える
素敵な石ころが、混ざっていたかもしれないのに。
一番下の基礎は、とても確かなものだったかもしれないのに。
それすら無差別に吹き飛ばす、無粋な言葉。

人間、基本的には「褒められて伸びる子」がほとんどではないかと、
わたしは常々思う。

そこまで一緒に(←ここ大事)培ってきた、積み上げてきたものを
上手に活かしながら、お互いがより良き方向を探せるように、共通の
ビジョンをつくり、それを練り上げていく。

それが演出の醍醐味じゃないかなぁ。違うのかなぁ。

「ダメ」って言ってりゃあいいなら、簡単すぎてつまらない。
じゃあ「ダメ」って言ってる本人は、ちゃんと「よりよき方向」見えてるの?
と、疑いたくなってしまう。

しかし、演劇というのは、技術もさることながら「心」を舞台に載せるもの
なので、実際に身体を張ってそこに立つ俳優は、時に、強烈な刺激を必要と
することも、確かにある。

そして中には、こてんぱんに否定されないと何も動かない、という人格を
お持ちの俳優もいる、確かにいる。

そういう相手、そういうタイミングは、息をつめて見計らって、「これ」という
タイミングで「これ」という言葉を選んで、とっておきのカンフル剤を
狙いすましてお見舞いするわけだ。

常に「ダメ」を連発しているようでは、効く薬も効かないと思うのだ。


この「ダメ出し」という言葉には、日本人の演出家の中にも疑問を持つ人が
増えていると、よく耳にする。

じゃあ、代わりに何というか。

かつて、某アメリカ人演出家は「YES出し」と呼ぼう、と提案した。
(これにはちょっと笑ったが、その現場では案外定着した)

例えば通し稽古などの後の「ダメ出しの時間」を「ディスカッション」と
呼んだ演出家もいた。

わたしは、英語の「notes」をそのままカタカナにして「ノート」と呼ぶのでも
いいかな、と思ったこともあった。
「指示」とか「提案」とか、その時に応じてそういう言葉も使っている。

時おり「オーダー」と呼んでいるのを耳にする。
残念ながら、これは英語圏からすれば「ダメ出し」より悪い。
「オーダー」は英語では「命令」である。
料理屋さんで「注文する」の「オーダー」なのだろうが、わたしはこの
「注文」も何だかしっくりこない気がする。

いい言葉、いまだに探し中、募集中である。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
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# 「QUESTION」
またもや、通訳エピソードを一つ。

‥‥いや、通訳は最早わたしの主職(って言葉ある?)ではないのだが、
日本語脳と英語脳の違いからあまりに色々なものが透けて見えるので、
このテーマで文章を書くのは昔からとても好きなのだ。


*****



主に演劇の場において欧米人と日本人の間に立ってきて、早18年。

稽古やワークショップ、記者会見、トークショー。
それらの場で、日本慣れしていない欧米人に必ずかける一言がある。

「日本人は質問をしない人種だから、【何か質問は?】と聞いた時に誰一人として
手を挙げなかったとしても、興味がないわけじゃないからショックを受けないで」

(これと類似した一言に、初日公演前の「日本人は本番中に拍手したり笑ったり
しない人種だけど、退屈してるわけじゃないから心配しないで。終演後はちゃんと
盛大な拍手と歓声がくるから」がある)

これは、欧米人がスピーカーの場合限定なのだろうか?昔から疑問だ。
とにかく、「何か質問は?」の後のあのいたたまれない沈黙を、わたしは一体
何度、体験してきただろう。

しかし、ここ10年くらいの間で、これは急速に変わってきたと実感する。
挙手をして質問をしてくる人が本っ当〜に増えた、と機会あるごとに実感する。
それでも欧米人アーティストたちに上記の言葉を言うのはやめないが。
(後で「質問、案外きたね」と嬉しそうに言われる方がお互い嬉しいからだ)

よく「何故そうなのだろう」という話になるのだが「日本人はシャイだから」に
逃げることだけはしたくないと思う。
まぁ「ガイジンさんに質問なんて‥‥」という気後れから未だ脱却できない
日本人も中にはいるかもしれないが‥‥

「質問」という概念の問題ではないか、とよく考える。

英語における「QUESTION」という言葉。
これがまた、実に訳しづらいというか、訳すのに気を遣う言葉なのだ。

「質疑応答」という場面では簡単だ。
「Does anybody have any questions?」を
「何か質問のある方はいらっしゃいますか」と訳すだけでいい。

しかし、演劇の現場において「戯曲の読み解き」などやっていると、これだけ
では対応しきれなくなってくる。

「Question the script」←これはアメリカ人の方の師匠がよく言っていた。
「Challenge the script」←これはイギリス人の方の師匠がよく言っていた。

これを、「台本に疑問を持とう」「台本に挑戦をしよう」と訳してしまうと、
ずいぶんととんちんかんな、演出家たちの意図とはかなり違った方向へと、
全てが転がり始める。

台本の矛盾点をつこうとする者。
素っ頓狂な解釈で場面を打破しようとする者。

‥‥うーんカオスである。

彼らの言う「question」「challenge」はいずれも

「台本をそのまま鵜呑みに、丸呑みにするな。
【これはどういうことだ】【これはこういうことだろうか】と
書かれていること全てに対する【問いかけ】のまなざしを絶やすな」

というような意味である。

つまり「考えろ」と。

そうなのだ。
英語における「question」とは「考え抜け」と同義語とすら言っていい。

では、日本語はどうだろう。

試しに「question」という言葉を英和辞典で引いても思うのだが、
「問う」という概念には「疑う」の色がちらつきはしないだろうか。

「問う」ことは「疑う」こと、つまり「否定している」ことだと、
無意識に思ってはいないだろうか?

「何か質問のある方はいらっしゃいますか?」と問われた時に、
目が合わないようにあさっての方を向きながら、心の中で
「いえ、何も文句はありませんよー」と答えてはいないだろうか?

「質問する」イコール「疑問を持つ」イコール「否定的な意見を持つ」
の図式が無意識に存在しているように、わたしには思われてならない。

実際、「わたしは問いたい」とか「疑問を持っている」とか、更に言えば
「それってどうなの?」といった表現は、日本語ではいずれも
「否定的な意見を持っている」ということを表明したい時に使う表現だ。

わたしは日本の教育を一度も受けていないのでわからないのだが、
これはどうも日本の教育に問題があるように思われてならない。

「質問する」を「口答え」のように捉える風潮が、日本の教育には
ありはしないか。

そもそも「教育」を、
「教師が生徒に正しい答えを教え、生徒はただそれを暗記する」と捉える
風潮が、ありはしないか。

‥‥いやわたしは一度も日本の教育を受けたことがないので、わからないが。

しかし、今まで接してきた俳優の中で驚くほど多くの人が、演出家を
「正解を教えてくれる人」と考えているらしいことは、経験で知っている。

更に言えば、インタヴューとトークショーで仰天するほど多い質問の形、
というのがある。

「この戯曲は◯◯◯で▽▽▽で、あなたの演出はこれまで□□□で◇◇◇だと
思うのですが(と、【質問者】の持つ戯曲や作家や演出家についての
蘊蓄及び自説が3分ほど続き)えー、これについてはいかがですか?」

冗談ではない。これが本当に多いのだ。
欧米人アーティストたちにも、とても不思議がられる(欧米ではあまり
ないパターンだと皆、口を揃える)

インタヴューの場合、「そうですね」などと言おうものなら、3分間の
蘊蓄及び自説をさもその演出家が発言したかのような印象を与えるように、
記事に書かれてしまうことだってあるので、おちおち相づちも打てやしない。

こういった「蘊蓄型question」に対する、わたしが触れた中で一番
鮮やかな切り返しは「よくお勉強してきましたねー!」であった。
もちろんその後に、演出家が自分の考えをきっちり喋ったわけだが。

演劇は「正しい答えを教える」場ではない。
むしろ「正しい答え」など存在しない、ということが前提である。
演出家は教師でも全知全能でもないので、台本のことでわからないことが
あればそれを素直に認め、稽古の中で他の俳優、スタッフ、そして
ゆくゆくは観客と共に、「一人一人にとって一番豊かな答え」を探す、
そのための「場」をつくっていく。

「場」とは、作品世界がどんどん豊かに深まるような「問いかけ」が
たくさんみつかる環境だ。

「正しい答え」を丸暗記することに疲れた人にこそ、演劇にふれてほしい。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
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# 「ニュアンス」文化。
これまでバイリンガルとして、また通訳者/翻訳家として
英語と日本語の狭間に立って、その2つの言語の橋渡しをしてきた
者として。

また、日本語をこよなく愛する者として。

日本語の特徴を「ニュアンス重視であること」だと思っている。

「特長」ではない。
いい面も悪い面も、あるからだ。
だから「ニュアンス偏重であること」と言い換えてもいいと思っている。

もちろん、このブログでも再三書いているように、日本語の言葉や
表現の細かいニュアンスは美しく繊細で奥行きと多様性があり、それは
少なくとも英語には到底持ち得ない豊かさである。

ほんの一端を挙げると‥‥
「さくら」「サクラ」「桜」「櫻」の違い。
英語では全て「I」一つになってしまう「わたし」「私」「あたし」「俺」
「僕」「わし」「おいら」etc. etc. ‥‥この彩り!

しかし、言葉を使って互いに意見を交わし合い、筋道を明確にし、最上の道を
探り合う‥‥つまりは「論じ合う」ことをする、その媒体として接していると、
この「ニュアンス」というヤツは「論じ合う」ことの邪魔になっていることが
どうも、多いような、そんな気が、しないでもないのだ‥‥コレが。

以前、とあるワークショップで、わたしの師匠の一人であるアメリカ人
演出家が「日本語にある【感情】を表す単語をあげてみて」と課題を
出した。すると出るわ出るわ、あらゆるニュアンス、グラデーションで感情を
繊細に表す単語の数々。それも皆さん、実例を挙げながら、愛おしげな表情で。

それに比べたら「感情を表す言葉」はごくごく根源的なものしか存在しない
英語を使って演劇をつくってきた師匠は、心底驚いていた。
(通訳するのも凄く難しかったこともちょこっと書いておく)

そうして言った言葉が

「どうりで、役者に【ここでこの人物はどう思っていると思う?】という
質問をするたびに、えらく小難しい返事が返ってくるわけだ」
であった。

そうなのだ。

「人間の生を【場】に出現させる」ことを目指しているが故に、演劇の現場では
しばしば「人間の思考」「人間の感情」を言葉にしていく必要が生じるわけだが、
「人間の思考」「人間の感情」を殊の外愛する人種である「役者」というサガの
皆さんは、本っ当〜に「ぴったりくるニュアンス」を探すことに熱心な方が多い。

それはいいのだ。それはもちろんいいのだが、「ぴったりくるニュアンス」を
探すあまり、発言の全てがそれに終始する場合が、どれだけ多いか。
しかも、「唯一無二のニュアンス」を探しているはずなのに、そういう時は
逆にやたらと長くなる。大げさでなく3分も5分も、色んな例えや自身の
体験談など織り交ぜて話し続けることもある。
それも、「こうでもあるし、こうでもある」のように積み重なっていくならば
いいのだが、そうではなくて「こう‥‥っていうか。こう‥‥じゃないけど」という
ふうに一つ一つのお話がランダムに緩やかに羅列されているだけのことが多い。
「どの言葉もちょっと違うけど、そういうような感じ?」的な。

つまりは、曖昧なのだ。

こういう話し方で長く話す人の定番の結びというのがあって、それがまた実に
奮っている。

「やっぱりうまく言葉にならないです」
「言葉ではうまく言えないんですけど」
「自分は言葉にするのがうまくないので‥‥」

必ずちょっと、眩しげな表情を浮かべて言われる、これらの言葉。

ここで透けて見えるのは
「【言葉にできるもの】よりも【言葉にできないもの】の方が尊い」
という信仰だ。
「ニュアンス文化」の正体は実はこれだと、わたしは睨んでいる。

「ちょっと待って」といつもわたしは思うのだ。

たとえ架空の人物であっても、台本に書かれた物語に人間の血と肉を与えるのが
演劇人の使命であるとするならば、そんなに曖昧でいいのかと。

「◯◯でもちょっと違う、◯◯かもしれないけどどうかなぁ‥‥やっぱりうまく
言葉にできない」って、じゃあ3分も5分も続いたその話から掴めるものは
ゼロかい!と。

演劇は共同作業だ。最終的には「言葉だけでは表現できないもの」をそこに
出現させ、観客に「言葉にならない想い」を持ち帰っていただくのがある意味
「目的」ではあるが、そこに至るまでの過程は、とにかくコミュニケーション
あるのみ。
そしてその最も重要なツールは、言葉だとわたしは思う。

わたしたちが暮らしている日常にはないような激情を生きる人物たちを
「言葉にできないほどなんだねぇ」とみんなでありがたく感心しつつ
頷きながら取り囲んでみたところで、その激情を板に乗せることはできない。

演劇が一人では成立しないものである以上(じゃあ一人で成立するものが
この世にあるのか!)その過程においては言葉が最も重要なものの一つで
あるはずだ。

前述のわたしの師匠の一人は、こういった役者の話を根気よく全て聞いた後で
よくこう言ったものだ。
「わかった。実に面白い考察だ。じゃあ今のその話を、この場面で全部表現してみて」
これを言われた時、たいていの役者は苦笑。聞いている周りは爆笑。

いや笑いごとじゃない。笑いごとじゃないとわたしは思う。

ニュアンス偏重はつまり、「ぴったりくる」以外の全てを切り捨てていることに
どれだけの人が気づいているだろう?
知らず知らずのうちにマイナスを重ねているだけでは、結局何も積み重なっては
いかないということに。
「ぴったりくる」を探すうちに、本質がどんどん隠れて見えなくなっているかも
知れない、ということに。

わたし自身の中に日本語脳と英語脳の両方が混在しているので(ちなみに割合は
8:2だ)身をもって感じるのだが、「ニュアンス偏重」日本語脳は、
本質を大きく捉えるのが実に苦手だ。

大抵の戯曲の場合、人物たちはそれぞれが自分の望む方向へ物事が変化して
ほしい、ともがいている。
何かの変化を望む者と望まない者がいるから、そこに対立及び葛藤が生まれ、
必然的に物語が生まれる。

そのシンプルな構図に当てはめて、ニュアンスなんか入り込む余地がないほど
ざっくりしたところから始めてもいいのに、といつも思う。

「彼は彼女を愛している」とか、そういった。

3分も5分も「ああじゃないしこうでもない」をやった人は、「彼は彼女を
愛している、ってだけのことなんじゃないかな」といった指摘をされると、
たいてい「そんな当然なこと」という顔をする。

自分が実は、その根幹を真正面から捉えることをせず、そこを飛び越し、
枝葉の部分ばかりを「ああじゃないしこうでもない」していたことには、
気づいていないことがほとんどだ。

日本語脳は「本質」より「解釈」が得意なのだと思う。

「その【本質】にたどりつくために色々と考えているのじゃないか」と皆さん
仰るが、わたしは逆だと思う。

例えば「彼は彼女を愛している」から始めて、シンプルで確かな要素を
積み重ねていく方法でも、本質に辿り着くことはできると思う。

何も、全てが最初から正解である必要はない。
正解に辿り着くために「◯◯っていうか、そうじゃなくて」を連ねていく
のではなく「じゃあ◯◯なのか?▽▽なのか?」といった問いかけでみつめ、
じっくりと定めていけばいいのじゃないか?と。
ひょっとして、◯◯も▽▽も、少しずつ正解かもしれないのだから。

大切なのは、否定形の言葉ばかりを積み上げてしまわないことだ。
ニュアンスの迷路の中で迷子になってしまわずに、シンプルで、誰もが
信じられる言葉、何ものをも否定しない言葉を見定めて、積み重ねていくことだ。

どうしてもニュアンスが大切なら、「言葉にならない」に逃げずに、
聞いている人の時間を無駄にせずに、「これ」という言葉を見つけ出す
能力を身につけることだ。

「芝居作りにおける【言葉】」のことを言っているようで、コミュニケーションと
いうもの、そのものの、話であるような気がする。



薛 珠麗(せつ しゅれい Shurei Sit)
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# 「渾身」
これまで、誰かに感謝を伝えようとする時、感謝の気持ちに
言葉が追いつかないことがよくあって、そのたびにもどかしかった。

「ありがとう」

大好きな言葉だけど、それだけじゃあ足りない気がするのは
よくあることだ。

それが先日、ある方から頼まれてわたしの師匠(の一人)宛ての
お手紙を訳していて、本当に素敵な言葉と出会えた。

その方の人生とか、お手紙に書かれたその方の人生の大きな出来事に
対する思いが溢れた、素晴らしい言葉だった。

感謝というものに、こういうふうに向き合えたら素敵だな。

生きる指針のようなものさえ、いただいた気がする。

演劇をやっていて、翻訳をやっていて、本当によかったと思えるのは、
実はこういう瞬間かもしれない。

演劇をやっていると、戯曲の中やそれを舞台へと作っていく過程で、
物凄く大きな感情から発せられた言葉と、出会うことができる。

戯曲というのはつまり、作品へと昇華して観客へ、世界へ、そして
願わくは永遠に伝え残したい思いや考えを言葉にしたものなわけだし、
舞台を作るという過程は真剣勝負だから、人生がかかった起死回生の
言葉というのにもたびたび遭遇したりする。また、演劇に関係する人は
感情が豊かで大きく、それを豊かで大きい言葉で伝えようとする。

日常ではなかなかお目にかかれない極限状態の感情や言葉に、わたしは
普通の人生の何倍、出会っているだろう。

わたしは翻訳をやっているから、尚更だ。
翻訳というのはつまり、わたしが原文から感じ取った感動を
違う言語で読んでも同じくらい感動できる文章に変換する作業でもある
のだから。
そのためには、言葉の受け手として最大限に心を震わせるよう心がける。

渾身の思いで紡がれた言葉を、渾身の思いで受けとめる。
演劇では、全てが誰もが、渾身だ。

本当にいい舞台を観た後、わたしは渾身の思いで生きたくなる。
常にそうやって、言葉や感情と、向き合っていたいものだ。



薛珠麗(せつ しゅれい)
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# くちびるに剃刀を!(拍手コメントお返事追記)
ある映画(舞台でもある)のタイトルを見て、ワタシの心の中の翻訳家が
「あーらら、やっちゃったね」と小さく声をあげた時、気が付きました。

単語の意味するものや範囲が違うことの多い日本語と英語。
その中でも案外知られていなくて、でも実は一番お互いに違和感が
あるのが「身体の部位」ではないかと。

「くび」
「上唇」
「あご」
「ひざ」
「ゆび」
「あし」
‥‥って、あなたにとって、どこですか?

「ひげ」って、どこに生えます?

‥‥ナニを言っとるんだこの人は、と言われそうですが(笑)

2つの言語の違いを考える時、当たり前の常識さえも、それこそ
当たり前のように通用しないのです。

「くび」って、日本語では、身体と頭部をつなぐ箇所を呼ぶだけでなく
頭部そのものも指します。
「首をはねる」とか「首をさらす」とか‥‥ね?「そういえば!」って
思いませんか?
‥‥と、上記で書いた例だけ見ると、「身体から切り離された時に
【頭】が【首】になる」という感じなので、幕末を節目に終わった感覚、
という気がしますが、そうでもありません。
「首領」という言葉があります。「親分」を示す「頭(かしら)」と
同義語になります。
「くびを出す」っていう表現もありますね。
英語で「くび」にあたるのは「neck」ですが、これはもう
頑に、絶対に、「頭」という意味にはなりません。あくまでも、
頭と身体を繋ぐ部分だけを言います。「頭」は「head」。
「neck」を検索していただければ、この文章の冒頭2行の意味が
お分かりいただけると思います。
あーらら、やっちゃったね。それは「neck」じゃない、「head」だよー。。

どうして日本語で「くび」が「頭」をも兼ねるようになったかと
考えると、やはり文化的な背景があるのでしょう。
ヨーロッパでも「首をはねる」ことはもちろん少なくなかったわけですが
英語では「首をはねる」は「behead」と言います。直訳すると
「頭だけにする」です。シュール(笑)
日本では、首をはねる時に刃物をneckに打ち込むことが余程
印象的だったんでしょうか。「首切り役人」が首を切ったヨーロッパと
違って「介錯」という習慣があったという違いかも知れません。

次も意外だと思います。
「上唇」。英語では「upper lip」。
何と英語では、日本では「鼻の下」と呼ばれる部分も「upper lip」です。
鼻と口の間は全部「上唇」なのです。つまり、英語では
「上唇にカミソリを当てる」が日常!ひえええ。

じゃあ「あご」と聞いた時に思い浮かぶ部位はどこですか?
日本語では耳と耳の間は基本的に「あご」だと思います。
歯の話をする時には「上あご」「下あご」という表現もありますね。
でも一番間違いなく「あご」なのは顔の一番下のとんがった部分かと。
耳のすぐ手前の部分は、そこと区別するために「えら」って
呼んでみたり‥‥しません?わたしだけ?

英語では、耳と耳の間のラインは「jaw」です。
歯並びの話をする時の「上あご」「下あご」も「jaw」です。
『ジョーズ』は「jaws」ですね。上あごと下あごにびっしり生えた
牙にはさまれて襲われるイメージ。でも『ジョーズ』というタイトルの
訳語が「【あご】の複数形」っていうことで脱力した人って絶対に
いると思うんですが、そういうわけなのです。

しかし!日本語の感覚としては盲点ですが。。顔の一番下にある
とんがった部分。ここが英語では名前が違うんですよ!
英語ではあごのとんがりは「chin」って言います。カワイイ。

次は「ひざ」。
シンプルに膝小僧のことかと思いきや大間違い!
日本語では、座った時の太もも部分も「ひざ」です!
「膝に載せる」って言いますね。「そんなの当たり前でしょ」って
言われそうですが、英語では全然当たり前じゃないです。
そこは「ひざ」つまり「knee」ではなく、「lap」です。
パソコンで「ラップトップ」っていう表現がありますね。
「デスクトップ」つまり机の上に据え置きする形に対して
「ラップトップ」つまり膝の上に置いて操作できますよ、という。

日本語で「膝小僧」と「座った時の太もも」が一緒になったのは、
やっぱり、畳に座る文化の賜物だと思います。椅子とテーブルの文化
では、この2つは存在感が薄いのです。

次は「ゆび」。
日本語では手の指も足の指も「ゆび」ですが。
英語では手だと「finger」足だと「toe」です。
日本語の感覚だと「ゆび20本」って言えば、何となく足の指も
勘定に入れさせてもらえるような気がしてしまいますが、それは
絶対にあり得ません。足の指は絶対に「finger」とは呼ばれません。
それはもう、頭以外の場所に生えた毛を「髪の毛」とは死んでも
呼ばないのと同じくらいきっぱりしたものがあります。

じゃあ「あし」はどうでしょう。
「あし」って日本語では「脚」と「足」の両方を指します!
漢字でしか区別がありません‥‥って、聞いただけじゃ分からんがな!
日本人は日常において不便を感じることはないのでしょうか?
当たり前になっているのでしょうか?わたしはいまだに不便です。
英語では当然「leg」「foot」と区別があります。

「あしが痛い」って、どこが痛いんだよ!
付け根からつま先まで、全部痛いのかよ!
…全部痛い時は、一言で言えて便利だよ!

これの文化的背景は何なのでしょうねぇ。

最後は「ひげ」。
日本語の「ひげ」は「あご」と「鼻の下」、つまり英語でいう
「jaw」「chin」「upper lip」に生える毛を言いますが。
英語では!何と!!ややこしいことに!!!

「upper lip」に生えるのは「mustache」で!!
「jaw」「chin」に生えるのは「beard」です!!

必要なのかぁーその細分化はぁーーー!!!

日本語では「くちひげ」「あごひげ」と区別も可能ですが、
全て一括して「ひげ」とも呼べるというのに‥‥

むしろ、ほとんどmustacheしか生えない男性も多い日本でなら
その区別あってもいいけど、白人の場合、そこ以外、例えば
頬とかでも平気でヒゲ生えてるのに。。じゃあ目に迫るという
イキオイで頬にもじゃもじゃ生い茂るヒゲは何と呼べば‥‥!

何とコレが。「Facial hair」と呼びます。
「顔に生えた毛」ってアナタ。。アリなんですかそれは!!!

目より下でもみあげより内側に生える毛全般を指す言葉を、英語でも
是非、作るべきだったとわたしは強く思います。

これ、文化と言葉が合致していない珍しい例ではないかと。




薛 珠麗(せつ しゅれい)



追伸:

ろこさま

コメントありがとうございます^^そうですね、
右のほうは「beard」ですね〜chinに生えてますから。あはは〜
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# 「ちょっとアレ」
通訳の経験のせいで、「アレ」という表現には極端に抵抗があります。
日本人がよくやる「ちょっとアレだから」「◯◯をアレして」といった表現。

通訳をしている時にこれをされると、とても困る時があるのです。
何を意味しているのかがはっきりと明白で、ただ単に話す人の言葉が追いついて
いないだけの時は汲んで訳しますが、わざと意味を曖昧にするために使って
いる時や、適当に喋っている時なんかは、訳していて本当に困るのです。
日本人同士のなぁなぁならいいのですが、文化も言葉も違う外国人と喋る時には
通じない!もっと言わせてもらうと、第三者を介しての会話をしているのだから、
テキトーな「ちょっとアレ」って通訳者に対してちょっと失礼だと思う。
そんな時は「アレって?」と聞き返したりすることもあります。

「いかにも日本人的」な感じのする「ちょっとアレ」的表現ですが、実は
英語にも似た表現があります。「You know!」っていうフレーズを挿むのです。
「わかるよね」っていうような意味で、お互い了解している内容をはっきり言わずに
済ます時(というのが、案外英語にもあります)や言葉が追いつかない時、
はたまた相手との距離を縮めたい時などにも、織り交ぜるフレーズです。
ただ、アメリカ人なんかは実はとってもきっちりしているので、きちんとした場で
「You know!」とか入れたら「Do I?」と切り返されたりするそうです。
わたしは経験がありませんが。「わかりますよね!」と言って「私がですか?」と
真顔で切り返されるということですから、これは実際やられたら結構怖そう(笑)
(通訳が「アレって?」って切り返すのもコワイかしら 笑)

しかし、通訳の仕事以外の場でも、わたしは「ちょっとアレ」的表現は使わない
ようにしています。たまに使う時は、完全なるネタとしてでしょうか。どうも、
この表現には言葉に対する真摯さを感じないので‥‥

今日、コンビニでこんなことがありました。

通販で買った商品を、コンビニで受け取った時のことです。

受け取りのための番号と名前を伝えて受け取るのですが、わたしの名字は
日本の名字ではなく誰も読めない(でも一応、漢和辞典にも載っている日本語読み
なんですよ〜携帯でも変換できるんですよ〜)ので、いつもスムーズにいきません。
でも、読めなくても大抵の店員さんは荷物を探し当てて「こちらですよね」と
わたしに字を見せて確認して、こちらに渡してくれます。

今日の店員さんは、いつもそこのコンビニで商品を受け取るわたしの名前に見覚えが
あったのでしょう、いかにも覚えがある感じで「ああ、ちょっとアレな漢字の」って
聞いてきました。

‥‥‥‥。

‥‥‥‥いや、わかるんですよ?

「難しい漢字の」とか「日本語じゃない漢字の」とか、そういう言葉がとっさに
出てこなくて、そういう表現になった、ってことは。

‥‥でもね、この言い方は失礼でしょう!

思わず面と向かって「気持ちはわかりますけど、その言い方はないでしょう」って
言ってしまいました。いえ、穏やかにですけれども。

店員さんもいいオトナでしたし、さすがにまずいと思ったのか、心からの謝罪を
してくれたので、別に気分を害することはありませんでしたが。
これからもそこのコンビニで荷物を受け取りたいし、その不快な気持ちには
二度となりたくなかったので、はっきり言いました。

だって‥‥こんな中国人コミュニティの真っただ中でその発言は‥‥やっぱり、
ちょっとアレですものねぇ。




薛珠麗(せつ しゅれい)




追伸:拍手にコメントをいただきました Yoko さま、ありがとうございます!
   該当記事の方にお返事を書かせていただきましたので、ご覧いただけたら
   嬉しいです!


追伸の追伸:Yoko さま、お返事すごーく嬉しいです!該当記事の方に
      わたしからもお返事を書かせていただきましたので、ご覧いただけたら
      とっても嬉しいです!
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# 「翻訳は難しい」某『紅白歌合戦』出演歌手編(拍手コメント追記)
よく「意外」と言われますが、大晦日の『NHK紅白歌合戦』を
欠かしたことがありません。

欠かしたのは多分、人生で3回だけ。

一度は、友達とヨーロッパを一周していて、パリで年越しを
迎えた時。(カウントダウンはシャンゼリゼ大通り)

二度めは、当時の彼氏とカウントダウンライブ&夜中の
水族館。(ペンギンの寝姿はこの世で一番面白い画です!)

三度めは、仕事の忘年会(といっても、その年は大晦日まで本番
だったので、その延長で終演後ごはんを食べただけ)

それ以外は、とにかく『紅白歌合戦』欠かしたことありません。
これまで年末年始に付き合っていた彼氏は、みんな関東以外に
実家がある人か、年末年始が書き入れ時な人だったこともあり。

でもね。『紅白歌合戦』好きなわけではないのです。全然。
ただ、年末とか正月とかあんまり関係ない仕事をしているので
わかりやすいイベントがないと年を越した気がしないんですよね。
だから必ず見ます、紅白。

でも何のかんの言って、毎年必ず1つくらい感動ポイントがある
のも『紅白』なんですよねぇ。

今年は、出場歌手にも審査員にも知り合いがいます。そんなの
初めて!ちょっと特別な気分です。

そんな『紅白』(ってどんな『紅白』?)に、スーザン・ボイルが
登場するという報道がありました。

スーザン・ボイル!!!

いやー「冴えないおばさんなのに天使の歌声」的な報道で、4月頃
物凄く話題になった方です。

彼女が歌ったのは、このブログでよーく登場するミュージカル
『レ・ミゼラブル』の中の、ファンティーヌという人物が歌う
『夢やぶれて』というソロナンバー。

彼女がオーディション番組で歌ったのであの歌を初めて聴いた、
という方も世界中にそれはそれはたくさんいるのだろうなぁ。。
ユーチューブで2009年、一番視聴された動画だったという報道も
ありましたし。

結局彼女はそのオーディション番組での優勝は逃したものの、見事
「歌手になる」という夢を叶え、CDをリリース。『夢やぶれて』が
もちろん収録されたそのCDは、タイトルも『夢やぶれて』。

うーん!!!

文脈が変われば翻訳も変化する、という究極のケースかも。。

やぶれたはずの夢が叶ったのに『夢やぶれて』とはご挨拶な!と
思った日本人、いっぱいいるんじゃないでしょうか。
ジャケット写真も、片手を頬に当て、彼女独特のはにかんだような
薄い微笑みを浮かべてます。
それなのに『夢やぶれて』とはこれ如何に!

実は、原題は『I Dreamed a Dream』なのです。
直訳すると「わたしは夢を夢見た」。

でも実はこれ、色々に訳せます。
「わたしは夢見てた」
「夢を見ていた」
「わたしは夢を抱いた」
いくらでも出てきます。
「直訳」がたくさんある英文なのです。

多分、タイトルに込められたニュアンスとしては
「わたしはずっと夢見てた。(そしてとうとう、叶えた!)」と、
かっこの中の意味まで匂わせる狙いがあるのでしょう。

「諦めて失ったはずの夢を、叶えた!」というのが彼女という
存在の、アイデンティティですし。
だからこそ、CDのジャケットも微笑んでいるのでしょうし。

じゃあなぜ『夢やぶれて』になっちゃったのか。

理由は簡単。ミュージカル『レ・ミゼラブル』で、そう
訳されているからなのです。

内容的にも

「夢見た人生 いま地獄に堕ちて 
二度とわたしには 夢は還らない」

で締めくくられる歌なのです、実は。

そういう内容であることもあり、日本初演から22年間、
『夢やぶれて』と訳されてきた歌なのでした。
『レ・ミゼラブル』日本語上演盤のCDも何ヴァージョンか
出ています。

つまり、原語タイトルは、絶望を歌った歌の内容と、
それを歌う歌手の実際の状況をどちらも表現できる、つまり
二重の意味を持ち得る言葉になっているのですが、
日本語タイトルにはその膨らみはなかったというわけです。

でも、このタイトルが和訳された22年後に、この歌が
こんな理由で世界的に有名になるとは、誰も予測できなかった
のは当然なわけで。。。翻訳陣を責めるわけにはいきません。

状況が変われば、翻訳も変化する。
その恐ろしい(翻訳家にとっては恐ろしいです)教訓の、
最高の例です。

ところで、わたしはスーザン・ボイルに感動はしませんでした。
「不美人が歌がうまい」のがそんなに珍しいかなぁ。。という
のが正直な感想です。
歌は確かに、素人とは思えない。立派です。
でもあれくらいだったら『レ・ミゼラブル』に出るような人の
中になら掃いて捨てるほどいますよー。
いやむしろ、あんなに雑な『夢やぶれて』は聴いたことがなかった
のが正直なところでした。

(「ギャップがウリ」的な注目をされた、ということでは
ポール・ポッツという人もいますね。わたしは彼のほうが
純粋に声のチカラだけで感動できました。選曲もあるかも
しれませんが、あの人の場合はタダのセールスマンではなく、
元々声楽で留学までして、ちゃんと訓練を受けた人ですから。。)

第一あのオーディション動画は、わざと不美人に造形している
あざとさが鼻について、スーザン・ボイル本人がちょっと気の毒。
まぁでも「不美人」が武器になって成功したのですから、本人にも
あれで良かったのかも知れないですが。

あの歌で感動した方は、是非本物の『レ・ミゼラブル』に
舞台でもCDでもいいから、触れてみてほしいです。
もっともっと素敵な『夢やぶれて』がたくさん聴けますよ。

いずれにしろ、冴えない容姿を味方につける、という大技を
差し引いても、歌手を夢見た人の夢が叶い、その想いが世界中に
届けられるようになったのは素敵なことだと思います。
あの年齢までああして生きてきた人生があるこそ歌える、っていう
深みを、歌で聴かせてほしいなぁ。

2009年の『紅白歌合戦』楽しみです。



薛珠麗(せつ しゅれい)



追伸:拍手をいただき、ありがとうございます。
以下、コメントにお返事をしております。
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web拍手
| comments(0) | trackbacks(0) | 03:07 | category: |
# 「翻訳は難しい」クリスマス編
世界は、キリスト教圏を中心にクリスマスでございます。

大好きなクリスマス・ソングがたくさんあるわたしですが、
その中の1曲が『Happy Christmas (War is Over)』。
ジョン・レノンが1971年に発表したクリスマス・ソングです。

タイトルにも歌詞にも入っている「War is Over」を
「戦争は終わった」と訳しているおばかさんをたくさん
見かけます。

ええ、言いましたとも。「おばかさん」と言いましたとも!
翻訳家の上から目線、ここでだけは言わせてもらいます。

考えてもみましょう、時は1971年。
当時「戦争」といえば、ベトナム戦争。

そうです。戦争、まだ終わっていません!!!

この歌は、こう歌っているんです。

「War is over if you want it」
「戦争は終わりだ そう望みさえすれば」

そうなんです、「戦争は終わった」と平和な世の中が
来たことを喜ぶ歌ではなく、ガチで反戦ソングなのです。

「老いも若きも 黄色い人たちも赤い人たちも」
とうまく含んであったり。

「この1年 我々は一体何をしてきたのか」と自問自答したり。

「今日はクリスマス
 弱き者 強き者 富める者 貧しき者
 全ての人々にとってのクリスマスだ
 なのに 世界は何と間違っていることか」

と告発したり。

新しい年は恐怖のない、幸せな1年でありますようにという、
祈りの歌です。

ジョンとヨーコが子供たちと共に呼びかける「Happy Christmas !」
という言葉の意味を、ぜひ新たに噛みしめて聴いてみてください。



もう1曲。


『赤鼻のトナカイ』に名前があるって知ってました?

英語ではタイトルのアタマに名前が入るのですよ。
歌い出しも、名前です。

真っ赤に光る(そう、英語では赤い上に光ります!)鼻を持った
トナカイは、ルドルフくんといいます。

英語では派手に名前を連呼されるのに、字数の関係でか
日本語に訳してみたらいきなり名無しくんになってしまって、
さぞかし驚いただろうなぁ、ルドルフくん。。




薛珠麗(せつ しゅれい)
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